大姓50位という区切りのいい順位の原田さんは、全国に29万人ほどが暮らし、シェアは0.23%ほど。原は平原を表していますが「崖と泉」の意もあり、そこに生まれた田んぼという地形姓。渡来人がルーツという原田さんもいますが、原田という地に落ち着いて名乗っています。
原田さんのルーツは後漢の霊帝か?
応神天皇20年(289年)9月、必死の思いで朝鮮半島を脱出し日本を目指す船団がありました。
戦乱のため滅亡を目前にした漢王29代・阿智使主(あちのおみ)と、その子・都賀使主(つかのつかいぬし)達が乗る船は、木の葉のように日本海の荒波に揺られていたのです。
それが原田さんのルーツにつながるのかもしれない亡命者の王族ということに。
『日本書紀』応神天皇20年(289年)九月条に「倭漢直(やまとのあやのあたひ=東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と記され、さらに『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条には、漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫(ひまご)という記述があるのです。
やっとの思いで日本にたどり着いた後漢の霊帝(中国後漢の第12代皇帝・劉宏)の末裔を自称するこの一族から、大蔵氏が、やがて原田氏が生まれているのです(坂上田村麻呂も劉邦の末裔を名乗っていました)。
大和朝廷に仕えたこの一族は、播磨国明石郡大蔵(現在の兵庫県明石市大蔵海岸あたり)に住んで大蔵姓を名乗り、やがて大蔵朝臣(おおくらあそん=古代の国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた一族)を賜っています。
後に大宰府(だざいふ=福岡にあった政庁)の官人となっていますが、天慶3年(940年)、藤原純友(ふじわらのすみとも)が大宰府で反乱(天慶の乱=藤原純友の乱)を起こすと大蔵春実(おおくらのはるざね)が追捕山陽南海両道凶賊使の主典となりそれを鎮圧し、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職に。
さらに、筑前国御笠(みかさ)郡原田(現・筑紫野市原田/原田=はるだ)に城を築き、以後、原田氏と名乗っているのです。
実際には、霊帝の末裔とはいえず、日本古代に朝鮮半島から帰化した氏族の倭漢氏(やまとのあやうじ)が、後漢霊帝の子孫を自称しただけという可能性も捨てきれません。
帰化氏族の勢力を二分した秦氏(はたうじ)は、秦の始皇帝の末裔と自称していたのですから。
いずれにせよ、朝鮮半島から先進の文明を有して帰化した人たちが、原田氏を名乗ったことには違いありません。
筑前国御笠郡原田の鎮守、筑紫神社(福岡県筑紫野市原田2550)は、まぎれもなく原田さんのルーツのひとつでしょう。
福岡県糸島市にも原田さんゆかりの地が
平安時代の末期、原田種直(はらだたねなお)は平氏方として活躍。
平重盛(たいらのしげもり)の養女を妻とし、事実上の大宰府の長官となり(大宰大監・少監)、九州における平氏の基盤を築いています。
平氏政権を支えた九州の日宋貿易も担っているので、軍事力としても平氏政権の中核的な存在でした。
平家が壇ノ浦で滅亡すると、原田氏も領地を没収。
原田種直は鎌倉の土牢で幽閉の身となりますが、建久元年(1190年)に放免され、その後は、筑前国怡土庄(いとしょう=現・福岡県糸島市)の地頭になっています。
この原田氏は鎌倉時代に雌伏(しふく)した後、建長元年(1249年)、原田種継(はらだたねつぐ)、原田種頼(はらだたねより)父子が古代中国式山城の怡土城(いとじょう)の遺構を利用し、高祖山に高祖城(たかすじょう/別名:高祖山城、原田城)を築城。
原田一族はここに再び隆盛を迎え、志麻・怡土・早良3郡を領有する戦国大名へと成長していくのです。
中世の山城である高祖城は、高祖山の山上に上ノ城(本城)と下ノ城を構えていますが、天正15年(1588年)、豊臣秀吉の九州征伐で廃城となっています(城主・原田信種は所領没収)。
高祖城・下ノ城の曲輪に残る石垣や、下ノ城と上ノ城を結ぶ土橋、上ノ城に残る大竪濠などが現存。
高祖城跡の高祖神社境内裏手の杉林は、城主原田氏の居館跡と伝わっています。
近くの金龍寺は原田氏の菩提所なので、九州の原田さんなら一度は訪れてみたい地です。
宇治市、豊中市にも原田さん関連の城が
山城国真木島城(京都府宇治市槇島町大幡)を居城とした原田氏のことも忘れてはなりません。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田氏の家臣・塙直政(ばんなおまさ)は軍奉行のひとりとして活躍、同年、織田信長から九州の名族の原田(はらた)姓を下賜されているのです(塙直政から原田直政に)。
この原田直政は、石山本願寺との戦い(石山合戦)で討死しています。
原田さんは地形姓だけあって肥後国球磨郡原田を発祥とする菊池氏族の原田氏や、美作国久米郡原田を発祥とする桓武平氏の原田氏、安芸国豊田郡原田を発祥とする芸備の原田氏、上総国の秀郷流原田氏、鹿島の鹿島神社社家、阿波国清和源氏流原田氏、指宿氏族平姓原田氏などがあり、実に多彩。
遠江国藤原姓工藤氏流原田氏は旗本として徳川家に仕えています。
城や神社としては、大阪府豊中市曽根西町・原田元町に南城と北城を有する摂津原田城(土豪・原田氏の居城)があり、一帯がかつての原田村で、その中心地が誓願寺。
さらに豊中市の中桜塚には、本殿が国の重要文化財に指定される原田神社(豊中市中桜塚1丁目)が鎮座しています。
『樅の木は残った』で知られる原田城は山形県に
山形県東置賜郡川西町の原田城(藤ヶ森城)跡は、伊達藩家老の原田氏の平山城で、樅の古木が聳えています。
ここが伊達騒動(仙台藩伊達家でのお家騒動)の主人公、原田甲斐(原田宗輔)の祖父までの居城。伊達騒動は、山本周五郎の歴史小説『樅の木は残った』で一躍有名になり、昭和45年に放送されたNHK大河ドラマ『樅の木は残った』では平幹二朗が原田甲斐を演じています。
伊達氏が置賜郡を領した頃、重臣だった原田氏の居城だった原田城は、現在でも本丸、二の丸の跡に苔むした土塁や空堀が残され、往時を偲ぶことができます。
原田甲斐が生まれた城はこの原田城ではなく、宮城県柴田郡柴田町の船岡城。
元和元年(1615年)、原田甲斐の父・原田宗資(はらだむねすけ)が大坂夏の陣の軍功で居城にしています。
原田さんは九州、中国など西日本に多い
原田さんは九州、中国など西日本に多い名前です。
山口県では大姓5位(0.95%)で100人にひとりは原田さんです。
岡山県(13位)、広島県、徳島県、福岡県(17位)、宮崎県、鹿児島県などに多く、古代から中世に北九州で活躍した名族・原田氏の歴史を今に伝えているのかもしれません。
知り合いに原田さんがいたとすれば、まず、西日本出身ということに。
家紋は、八重桔梗、抱き茗荷、三つ引両、九つ日足、丸に万字、軍配団扇、三つ巴、下り藤、鷹の羽、剣片喰(けんかたばみ)、七曜、梅鉢、揚羽蝶、丸に梶葉など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
原田さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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