松田さんのルーツを探せ!

家紋は多様だ。日の丸は白地に赤の丸だが、黒地に家紋の部分を白く抜いたものが白餅、白地に黒く抜いたのが黒餅。それに、蛇の目という家紋もまん丸だ。
実は○があれば×もある。
──呪符の一つに直違紋(すじかいもん)という「✕印」の家紋がある。松田姓の家紋で、2本の直違紋が多い。十字紋と蛇の目紋、そしてこの直違紋の3つが「日本の三大呪符紋」といわれているのだ。
実は、この直違紋だけではなく、他にも、三つ頭波、目引籠(めひきかご)、十四花弁菊などと、どれも珍しい家紋を使用しているのが松田さんなのである。
それでは松田さんのルーツを探す旅に出てみよう。

神奈川県松田町発祥がメインのルーツ

最初に相模国(神奈川県)の松田さんの流れを追ってみよう。
──相模国足柄上郡松田(神奈川県足柄上郡松田町)から発祥した藤原秀郷流波多野氏族の松田氏は、保元・平治の乱で活躍した波多野義通の子・義常(よしつね)が、松田右馬允(うまのじょう)と名乗ったのを始まりとする。
初代の松田氏である松田義常は大庭景親とともに、治承4年(1180年)、石橋山の合戦で源頼朝を破り、頼朝の鎌倉入りの際にも一族とともに松田城に籠り抗戦するのだが、ついに自害。その後、義常の子・松田有経は許されて鎌倉御家人となる。
ここで、松田義常が築城した松田城跡(足柄上郡松田町松田庶子/TOPの画像)を訪ねてみよう。
松田城はJR御殿場線の松田駅と東山北駅の中間、丹沢山系から伸びる丘陵の末端である松田山に築かれた大規模な連郭式の山城であったが、今はほとんどがミカン畑にと姿を変えている。天神沢と旗矢沢に挟まれた丘陵から見る相模湾方面や酒匂川上流方面などへの見晴しがいい。

岡山にも松田さんのルーツが

さて、松田氏の歴史を備前国(岡山県)に移してみよう。
──相模国の松田有経の弟・松田高義の子孫が備前に移り、備前国西部一帯に君臨した松田氏が生まれている。
備前の松田氏では松田元隆(まつだもとみち)がよく知られているが、元隆は赤松政則に加勢し、備前守護・山名氏と戦い、その恩賞で富山(とみやま)城に居城、その子・松田元成(まつだもとなり/墓所は岡山県岡山市東区瀬戸町)は本拠を金川城(玉松城)にと移した。
松田氏は、旭川と宇甘川(うかいがわ)の合流地点にある地の利を生かした臥竜山の山頂に金川城(岡山市北区御津金川)を築いたのだが、本丸跡は東西80m・南北40mと非常に広く、同時代の山城では最大級のものという。木戸跡や雄大な竪堀、曲輪跡が残る。備前国(岡山県)でも天神山城と並んで最大級の規模を誇る中世山城で、往時には「西備前一の堅城」と謳われたという。直径5m、深さ10m以上という天守の井戸は、覗き込むと足がすくむほど。
小早川秀秋の備前入国で廃城となっている。
近くには城主・松田氏が相模国から勧請したと伝えられる七曲神社がある。この七曲神社は松田氏の氏神として、長禄元年(1457年)頃、相模国七曲山から金川に勧請されたと伝えられている。この七曲山が定かでなく、氏神を勧請して金川城下の七曲に置いたとも考えられる。
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↑松川城跡

やがて、備前の松田氏の中には再び相模国に戻るものもあり、小田原北条氏の三家老衆の一人として家中に重きをなすようになる。豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの時には、小田原城中の評定で「勝目の無い野戦は無謀」と籠城策を主張した松田憲秀(まつだのりひで)が知られている。また、陸奥国の松田氏や信濃国の松田氏も相模国の松田氏の分かれという。
他に、清和源氏新田氏族の上野国の松田氏、藤原良門流井伊氏族の遠江国の松田氏、尾張国の松田氏、越中国の松田氏、近江、丹後、石見、伊予、薩摩などにもそれぞれ松田氏の流れがある。

松田姓は山形県(大姓19位)と北陸、関西に多い。

家紋は、直違、二重直違、三つ頭波、目引籠、十四花弁菊、丸に三階松、丸に二本松、松皮菱、五三桐、沢瀉菱、升に唐花、丸に千鳥、白羽矢車、鶴の丸など。

 

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