村上さんのルーツを探せ!

村上さんといえば、一見、「村の上(奥)の方に暮らす人」という地名姓を連想させます。村の奥は鎮守の森などの聖地が多いため、村の神にも通じる名前ということに。 しかし、大姓39位、35万人ほどが暮らし、シェアは0.28%と推定される村上さんのルーツはそんなに単純ではないのです。

まずは、村上義清から調べを進めよう

葛尾城
山麓から眺めた葛尾城、ピラミッドピークが印象的です

なぜ、村上さんのルーツが、「村の上に住む人」という単純な地形姓に当てはまらないのかといえば、第62代村上天皇(在位946年〜967年)の子孫を名乗る村上源氏という賜姓皇族説(賜姓皇族=天皇から姓を与えられ臣籍に下った皇族)もあるのだから。

実は源氏には祖とする天皇別に「源氏二十一流」という21もの流れがあり、村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう=平安時代中期の皇族)を祖とするのが村上源氏。
ただし、注意したいのは、村上源氏の末裔が必ずしも村上さんではない点です。
維新の十傑に数えられる岩倉具視(いわくらともみ)も村上源氏の流れだし(ただし岩倉具視は公卿・堀河康親の次男で、岩倉家に養子縁組)、北畠さん、佐々木さん、本間さんにもこの流れがあるのです。

ちょっぴり複雑な、村上さんのルーツ探しの旅は、武田信玄を二度も破った武将、村上義清(むらかみよしきよ)のしから。

信濃国更級(さらしな)郡村上郷(現・埴科郡坂城町)を発祥とする村上氏は、八幡太郎・源義家の祖父である源頼信の清和源氏頼信流。
嘉保元年(1094年)源仲宗の四男・源盛清が村上郷に配され、その子・源為国(みなもとのためくに)の時(平安時代の末期)に初めて村上氏を名乗ったとのこと。

戦国時代の村上氏の本拠地は、信濃国・埴科郡坂城(はにしなぐんさかき)の葛尾城(かつらおじょう)で、村上氏は北信濃四郡を領有する信濃の一大勢力にまで発展していました。
葛尾城は、ピラミッドピークとも称される山に築かれ、いかにも難攻不落といった様相です。

戦国全盛時代の当主・村上義清は猛将として有名で、信濃に進出してきた武田晴信(たけだはるのぶ=後の信玄)を天文17年(1548年)の上田原の戦い(現在の長野県上田市での合戦)で破り、この合戦で信玄は初めての大敗を喫しています。

続いて天文19年(1550年)、戸石城(砥石城)攻防戦でも村上義清は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして見事晴信(信玄)を破っています。
これが戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる信玄の大敗北。

しかし、これで武田信玄が黙っているはずもなく、天文22年(1553年)、ついに村上義清は葛尾城を追われ、越後に逃れて上杉謙信を頼っています。

ここに信玄と謙信は対峙し、やがて川中島の戦いへ突入。
実は信玄と謙信の対立の原因にもなった男、それが村上義清というわけなのです。

平成19年のNHK大河ドラマ『風林火山』では村上義清を永島敏行が熱演。
NHKがこの役に永島敏行を配したことからも、村上義清がいかに重要な人物だったのかがよくわかります。

「北信濃の雄」、村上義清の居館跡へ!

葛尾城主郭
葛尾城主郭

「北信濃の雄」、村上義清の居館跡は、葛尾城(長野県埴科郡坂城町坂城)の南山麓の満泉寺(長野県埴科郡坂城町坂城1148)とその周辺一帯。
天文22年(1553年)、武田軍に攻められた村上義清は、居城の葛尾城と居館を兵火で失い、その後、上杉景勝が北信濃を領有すると、村上義清の子・村上景国(山浦上杉家を継いで山浦国清を名乗る)は信濃の地・海津城に返り咲き、父・義清の居館跡に満泉寺を再建しています。

村上義清自身は、元亀4年(1573年)正月、越後根知城で病死。
仇敵・信玄の死の5ヶ月前のことでした。

そんな満泉寺には村上氏系図等が保存され、武勇伝を後世に伝えています。
本尊の石造釈迦如来坐像」(長野県の県宝)は安山岩に彫られた仏像(石造の本尊は信州で唯一)で、鎌倉時代後期の作。

葛尾山頂の葛尾城跡からは、坂城・戸倉上山田の街並みや千曲川の雄大な流れが一望に。
この葛尾城、徳川秀忠が関ヶ原に向かう途中の上田城攻防戦で、徳川方が籠もったため、真田信繁(幸村)が二度にわたり出撃。

つまりは平成28年のNHK大河ドラマ『真田丸』の重要な舞台でもあるので、村上さんなら一度は訪れてみたい場所といえるでしょう。

千曲川の北岸にそびえる城は、この地に狭まった千曲川を眼下にする天然の要害。
善光寺平に進むにはどうしてもこの関となる場所を通る必要があるのです。
(天然の要害ぶりは、下の地図を参照)

越後村上藩の村上城も村上さんゆかりの地

近世の越後村上藩の村上氏は、藩祖・村上頼勝(むらかみよりかつ/村上義明)を村上義清の子・国清の弟としていますが、新井白石は伊予の村上二郎の後胤とするなど異論も多く、判然としません。

新潟県村上市街地東端にそびえる標高135mの臥牛山山頂一帯に村上城跡があり、村上の街中から見上げた臥牛山頂に、今も累々と石塁が連なっているのが確認できます。
臥牛山の地形を巧みに利用した天然の要害で、上杉謙信軍に攻められても落城しなかったという難攻不落を誇っています。

慶安2年(1649年)、徳川家康のひ孫、、「引越し大名」として知られる松平直矩(まつだいらなおのり)が入城、城と城下を整備しています(ただし、7歳のときに入城、成人すると転封により姫路に)。

村上城は村上氏2代によって近世城郭へと姿を変えていますが、残念ながら越後村上藩主だった村上家は2代限りとなっています。

村上城

村上城

新潟県村上市、村上市街地脇の標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)山頂に築かれた平山城が村上城。戦国時代に築かれた城で、藩政時代には近世城郭に改変され村上藩の藩庁となった城です。国の史跡に指定されるほか、続日本100名城にも選定されています。

村上さんのルーツのひとつ、瀬戸内海を支配した村上水軍

大山祇神社拝殿 (国の重要文化財)
大山祇神社拝殿 (国の重要文化財)

一方、瀬戸内海を支配していた有名な「村上水軍」の村上氏も、信濃村上氏の一族と推測できます。

鎌倉時代に因島(いんのしま/現・広島県尾道市)の公文(くもん=徴税官)に任命され、室町時代に幕府から海上の警備を任されてから水軍として活躍し、後には織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者へと成長しています。

この村上水軍は、因島村上、能島村上(のしまむらかみ)、来島村上(くるしまむらかみ)の三家に分かれて瀬戸内海の海上交通を支配。
戦国時代の当主は、因島村上氏は村上吉充(むらかみよしみつ)、能島村上氏(能島城主)は「海の大名」として名を馳せた村上武吉(むらかみたけよし)とその子・村上元吉、そして来島村上氏(来島城主)は村上 通康(むらかみみちやす)とその子・村上通総(むらかみみちふさ)です。

やがて、来島村上氏は豊臣秀吉の側近となり、来島長親(くるしまながちか)は、関ヶ原の戦いで西軍に与しますが、妻の伯父である福島正則の取りなしにより、豊後国森藩・初代藩主に(現在の大分県玖珠郡玖珠町に森陣屋を構えていました)。
水軍としての来島村上氏はこれで終焉しますが明治を迎えるまで大名として存続しています。
童話作家・久留島武彦(くるしまたけひこ)は大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身でその末裔です。
隠岐(島根県)の村上氏も村上水軍と同族で、隠岐における海運業の先駆けとなっています。

村上水軍の関係地として、まずは水軍の聖地である大三島(おおみしま/愛媛県今治市大三島町宮浦)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)があります。

大山祇神社は、伊予国一之宮で、源平の時代から近世に至るまで、西日本を制しようとする者は村上水軍に協力を乞い、島の大山祇神社に武具甲冑を奉納したため、数多くの国宝・重要文化財の武具・甲冑が大山祇神社に納められています。

大山祇神社

「瀬戸内しまなみ海道」(西瀬戸自動車道)の走る芸予諸島北部、愛媛県今治市の大三島(おおみしま)宮浦港の東に位置する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)。創建の歴史は古く、神話の時代、神武天皇の東征に先駆けて芸予海峡の要衝である御島(みしま=大

「しまなみ海道」沿いの島々は、村上さんのルーツ

因島水軍城
因島水軍城

大三島のすぐ前にある古城島の甘崎城(あまざきじょう)は日本最古の水軍城の城跡で、また、島全体が来島城の城跡となっている愛媛県今治市波止浜沖の来島、今治市宮窪町宮窪の能島城、尾道市向島の向島には余崎城と村上水軍ゆかりの城が散在しています。

さらに、因島(広島県尾道市因島)の南端には長崎城が、島の中央部の青陰山山頂に青陰城があり、島の北端には青木城が、因島支所前の亀島には亀島城があり、水軍城だらけの様相に

「日本最大の海賊」の本拠地、芸予諸島として、日本遺産の登録文化財にもなっていて、一帯が村上水軍ゆかりの地となっています。

広島県尾道市因島中庄町にその名を「因島水軍城」という昭和58年に建てられた観光城が聳え、内部には村上水軍の歴史・資料が展示されています。
その「因島水軍城」の麓にある金蓮寺(こんれんじ/尾道市因島中庄町3225)は村上水軍の菩提寺なので、村上さんならぜひおとずれてほしい場所のひとつです。

毎年8月には南北朝時代から室町・戦国時代にかけて因島を拠点に活躍した村上水軍を再現する『因島水軍まつり』が開催。
島まつり、火まつり、海まつりに分かれており、海まつりは、水軍時代に使われていた伝令船「小早」を使った『小早レース』も行なわれています。

『いんのしま水軍まつり』
『因島水軍まつり』の小早レース

因島水軍城

因島水軍城

水軍活躍の地、広島県尾道市の因島(いんのしま)にある観光城郭が因島水軍城。昭和58年に歴史家・奈良本辰也氏の監修により村上水軍の菩提寺、金蓮寺(こんれんじ)近くの丘に建てられた観光城郭です。本丸は水軍の大将が乗る安宅船の船上の櫓をイメージし

金蓮寺

金蓮寺

広島県尾道市、芸予諸島のひとつ、因島(いんのしま)にある曹洞宗の寺が金蓮寺(こんれんじ)。村上海賊(因島村上海賊)の菩提寺で、正徳年間(1711年〜1715年)に廃寺となりましたが、寛政2年(1790年)に再興されています。境内に村上海賊の

千葉の村上さんは八千代市がルーツかも

瀬戸内海の水軍から目を本州に転じれば、さらに、千葉県八千代市米本に村上氏の居城だった米本城(よなもとじょう)と米本神社、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷村上に村上神社があります。

奥飛騨温泉郷村上地区は、村上天皇を神社に祀り、その後、土地の名前を村上と称するようになったと伝わりますが定かでありません。
奥飛騨温泉郷の総鎮守でもある村上神社の例祭は新緑始まる5月に齋行されています。


千葉県八千代市にある米本城は一の郭・二の郭・三の郭から構成される平城。
天文年間(1532年〜1555年)に土豪の村上国綱、村上綱清(むらかみつなきよ)父子が築城したと伝わる中世の城で、城の主要な部分は高度成長期に土の採取現場となって、残念ながら失われています。
麓を流れる新川には城橋(じょうばし)が架かっていますが、その新川が堀の役割を果たしていました。

米本城主・村上綱清が開基した寺が米本山長福寺(曹洞宗)。
城郭的な雰囲気もあるので、米本城山麓の館的な存在だったのかも知れません。
ちなみに米本城の東北(鬼門)の守りが米本神社といわれています。

この村上綱清は、最初に紹介した信玄を苦しめた戦国大名の村上義清と同族といわれ、中世には総州村上氏の拠点として機能していました。

現在でも村上さんは瀬戸内海沿岸に多い

日本一有名な村上さんは、『ノルウェイの森』で知られる作家の村上春樹でしょうか。
出身は京都市伏見区。
『限りなく透明に近いブルー』の村上龍は長崎県佐世保市出身。
お笑い芸人の村上ジョージ(本名・村上昭二)は、瀬戸内海に面した愛媛県今治市、村上ファンドで世を騒がせた村上世彰(むらかみよしあき)は大阪市出身。
歌手、司会者でタレントの村上信五(「SUPER EIGHT」)は大阪府高槻市出身、お笑いトリオ「森三中」の 村上知子は神奈川県横浜市磯子区出身、「フルーツポンチ」の村上健志は茨城県稲敷郡牛久町(現・牛久市)出身と有名人に限っていえば西日本が少し優勢です。

実際に、現在でも村上さんは瀬戸内海沿岸に多く、とくに村上水軍の本拠地のあった愛媛県では大姓3位(1.20%)と大躍進。
対岸の広島県もやはり大姓6位、そのほかでは、熊本県は3位(0.94%)。

代表家紋は上の字。
因島家と能島家は丸に上の字、来島家は折敷(おしき)に縮み三文字。
ほかに、五三桐、鷹の羽、片喰(かたばみ)、五瓜(ごか)に梅鉢、藤菱、菊、巴など。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

村上さんのルーツを探せ!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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