大姓42位の太田さんは、全国32万人ほど暮らしていて、シエアは0.25%ほど。地形姓だと目される太田さんですが、「太い田」ではなく、田の多いことを意味し、しかも広大な田んぼのあるムラを表しています。その豊かな土地を支配した豪族、武士団などが太田を名乗ったことも多かったと推測できます。
まずは関東では有名な太田道灌のルーツから
神奈川家兼鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)、寿福寺の北隣に、鎌倉に残る唯一の尼寺として知られている英勝寺があります。
徳川家康の側室で、春日の局(かすがのつぼね)以上に権勢を誇った英勝院(お勝の方)を開基とする英勝寺は、珍しい袴腰付の鐘楼、華麗な色彩を持つ祠堂(しどう)、精巧な細工が見られる唐門など、江戸時代初期の名建築が素晴らしい尼寺で、鎌倉時代をイメージする鎌倉にあって、寛永13年(1636年)の開創。
寛永11年(1634年)、英勝院は自身の先祖の地であるこの扇ガ谷を3代将軍・徳川家光から貰い受け、英勝寺を開いていますが、英勝院の先祖である太田道灌(おおたどうかん)は室町時代後期に江戸城を築城するまでここに居住し、扇ガ谷こそ太田家栄華の始まりの地だったのです。
源頼朝(みなもとのよりとも)に先んじて、以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計画した源頼政(みなもとのよりまさ=源三位頼政・げんざんみよりまさ)の子孫・太田道灌、その末裔となる英勝院の家系を少し遡ってみましょう。
──清和源氏頼光流の源頼政頼政の孫・源隆綱(みなもとのたかつな)が、鎌倉幕府から丹波国桑田郡五箇荘を与えられ、さらにその孫の源資国(みなもとのすけくに)が桑田郡太田郷(現在の京都府亀岡市薭田野町太田)に移り太田氏を名乗ったのが太田氏としての始まり。
太田資国(源資国)は丹波国上杉郷の地頭・上杉重房(うえすぎしげふさ=上杉氏の祖)に仕え、建長4年(1252年)、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)が鎌倉幕府6代将軍に就任(皇族で初めての征夷大将軍)、東下の際に鎌倉に下向し、室町時代には扇ガ谷の上杉氏に仕えています。
太田氏は扇谷上杉家の家宰(かさい=家の仕事をするトップ)の家柄で、相模守護代を務め、知恵者と称された太田資清(おおたすけきよ)などを輩出。
その太田資清の子が太田資長(太田道灌)です。
英勝寺の通用門の門扉には徳川家の葵紋と、その中心に太田家の桔梗紋が配され、仏殿の天井などにも葵紋と桔梗紋を見ることができます。
英勝院を祀る祠堂前のワビスケがいかにも尼寺らしい小さく清楚なピンクの花をつけていますが、この英勝院は江戸時代初期に没落寸前だった太田氏を近世大名にした、太田氏中興の恩人でもあるのです。
太田道灌の墓は、伊勢原市に
康正2年(1456年)、太田道真は嫡子・資長(太田道灌)に家督を譲り、康正2年〜長禄元年(1457年)にかけて太田道真・太田道灌親子は河越城(埼玉県川越市)、岩槻城(岩付城/埼玉県さいたま市)、そして江戸城(東京都千代田区)を築いて主君・上杉定正(うえすぎさだまさ)をよく補佐し、各地で戦功をあげています。
太田道灌は、上杉顕定(うえすぎあきさだ) の謀略で、文明18年(1486年)、主君・上杉定正の手によって定正の居館・相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)で謀殺されてしまいます。
死に際に「当方滅亡」と言い残し、父・太田道真も翌々年の長享2年(1488年)に越生(おごせ)で死去しています。
太田道灌の墓は、伊勢原市上粕屋の洞昌院(とうしょういん)にあり、寺自体も太田道灌の開基。
洞昌院は太田道灌ゆかりの寺で、太田さんのパワースポットのひとつ。
近くには太田道灌の主君・上杉定正の粕屋館跡があり、前述したように太田道灌はここで謀殺されています。
粕屋館跡(上杉館跡)は、産業能率大学湘南キャンパスあたりの台地上にあったと推測されていますが、産業能率大学建設時の発掘調査でもその遺構は発見されておらず、キャンパスの東側が居館跡という可能性が大。
岩槻城も関東の太田さんならぜひ見学したい城
岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)の築城については、現在、太田氏築城説と成田氏築城説が並立している状況ですが、太田氏の居城だったことは間違いのない史実。
大永2年(1522年)、太田道灌の子孫、太田資頼(おおたすけより=父・太田資家は道灌の弟)が岩槻城を奪取し、以後、永禄10年(1567年)に北条氏の直轄地となるまで岩槻太田氏の居城となっているのです。
太田資頼の子・太田資正(おおたすけまさ)は岩槻城主となり、戦乱の世を生き抜いて豊臣秀吉の小田原征伐の際に小田原城に参陣して天下人となった秀吉に拝謁を許されています。
太田重正(おおたしげまさ=英勝院はその妹ともいわれますが定かでありません)は同族の太田資正(岩槻太田氏)を頼って落ち延びた後、関東に封じられた徳川家の配下となり、英勝院の尽力もあって下野山川藩の藩主にまで出世、やがて一族は遠江掛川5万石の藩主となっています。
さいたま市岩槻区太田にある岩槻城跡は、現在、岩槻城址公園として整備され、岩槻城の土塁が現存し、黒門と裏門が移築されています。
残念ながら城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となり、往時を偲ぶことはできません。
埼玉県熊谷市にも太田さんのルーツが
そのほかの太田氏としては、武蔵国大里郡妻沼(現在の埼玉県熊谷市永井太田周辺)を発祥とする武蔵七党猪股党の太田氏、上野国新田郡太田(群馬県太田市)を発祥とする太田氏、下野国都賀郡太田を発祥とする秀郷流の太田氏、紀伊国名草郡太田を発祥とする太田氏は太田城で太田党を率い、摂津国島下郡太田を発祥とする満仲流宇野氏族の太田氏は太田城を治め、播磨国佐用郡太田を発祥とする村上源氏赤松氏族の太田氏や、但馬国出石郡太田を発祥とする大江氏流の太田氏など多彩。
埼玉県熊谷市(武蔵国大里郡妻沼)にある太田神社(熊谷市飯塚1431)と太田小学校一帯も太田さんのルーツのひとつ。
太田神社は、大正3年創建と比較的に新しい創建ですが、明治末の神社合祀のなかで、旧太田郷(太田村)の村社を合祀して村の中心に建立したもの。
高城城(たかぎじょう/熊谷市永井太田1400)の城主も太田六郎で、豊かな大きな田んぼがあったっことを裏付けています。
和歌山市にも水攻めで有名な太田さんゆかりの地が
太田城としては豊臣秀吉の水攻めに屈した太田党の本城である紀伊太田城(和歌山市太田)は、現在、来迎寺(和歌山県和歌山市太田529)のある場所が本丸跡と伝えられ、大立寺山門には紀伊太田城の大門が移築されて現存。
太田城はさほど有名ではありませんが、太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつなので、和歌山市を訪れた太田さんならぜひ見学を。
天正4年(1576年)、太田左近が修築した太田城に攻め込むのが天下統一をめざす羽柴秀吉。
ここで秀吉が採ったのが水攻め。
羽柴秀吉軍が太田城に攻城した時には、6万から10万。
対する太田衆は、3000人から5000人。
太田左近は城兵に対して「堀は深く櫓は高い。一度秀吉に弓を引いたのだから、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない」と諭して奮戦。
なんと1ヶ月にも及ぶ籠城戦で兵糧も尽き果て、ついに太田左近らは自刃しています。
玄通寺の近くに「小山塚」という碑が立っているのは、3ヶ所築かれた首塚のひとつです。
太田さんは東海地方に多い
このほか、東京都北区赤羽の太田道灌が築いた稲付城址にある自得山静勝寺の石段上正面に道灌堂があり、岩槻城主太田道真が岩槻に建立したことに始まる新座市野火止(のびどめ)には平林寺があり、熱川温泉には道灌乃湯と太田道灌像が立っています。
太田道灌像はJR日暮里駅前にもありますが、実は日暮里駅〜西日暮里の山手線の内側の高台が道灌山。
太田道灌の出城があったともいわれています。
太田さんは東海地方(静岡県で大姓24位、愛知で27位)を中心に全国に分布。
代表家紋は、太田道灌と同じ太田桔梗。
土岐桔梗に対して太田桔梗は花弁が細いのが特徴でほかに、矢、釘抜、五三桐、違い鷹の羽、九曜、鴛鴦(おしどり)など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
太田さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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