坂本さんは大姓37位で、全国に35万人ほどの坂本さんが暮らし、シェアは0.28%となっています。坂下さん、坂上さんと同様に山や丘陵のすそ、坂の入口のムラという意味合いで、比叡山の下の坂本、古代の東山道・神坂峠(みさかとうげ)の坂本は有名です。
坂本さんでいちばん有名なのは、坂本龍馬!
歴史上の人物の人気ランキングで必ず上位に入っているのが、勤王の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗などと並んで必ず、好きな武将、人物の上位に顔を出しています。
明治42年1月1日に発行された『冒険世界』という雑誌の付録に「全世界英雄番付」が掲載されているので、紹介すると、読者アンケートでの東西の英雄番付で、東洋版の横綱は、豊臣秀吉。
以下、大関・チンギスハン、関脇・徳川家康、小結・西郷隆盛、前頭筆頭・北条時宗で、織田信長はといえばなんと10番目。
坂本龍馬はうーんと下がって58位にランクされているのです。
実は、坂本龍馬の英雄的なイメージは、司馬遼太郎の長編小説『竜馬がゆく』の出版以降に形成されたもの。
それを原作にして、テレビドラマや映画でさらに龍馬人気が増幅される傾向にあるのです。
ただし、『竜馬がゆく』によって、坂本龍馬が正しく評価されたという可能性もあるので、略歴を記すと、
──天保6年(1835年)、坂本八平の次男として生まれた土佐藩郷士坂本龍馬は、江戸へ出て、北辰一刀流・千葉定吉(千葉周作の弟)の門弟として修行を開始。
龍馬は初めて江戸に上るとき関所を過ぎた途端、おもむろに懐から下駄を出して履いたのだとか。
土佐藩では上士は下駄を履くことができましたが、龍馬のような下級武士は草履(ぞうり)しか許されていなかったという時代背景を表したエピソードです。
龍馬は、やがて勝海舟のもと神戸海軍操練所で学び、慶応2年(1866年)には薩長同盟の締結を仲介。
同年の第二次長州征伐では薩摩藩名義で長州に武器・弾薬を調達。
土佐藩の援助を受けて海援隊を発足させ、慶応3年(1867年)6月、長崎から京都へ向かう船上でいわゆる「船中八策」を示しています(これは10月の大政奉還建白書の原型に)。
そして、大政奉還後の11月15日、京都近江屋にて暗殺されてしまいます(享年33)。
墓所は京都市東山区清閑寺霊山の霊山墓地。
故郷である土佐、高知市浦戸城山に「高知県立坂本龍馬記念館」が建っています。
坂本龍馬のルーツは大津市の坂本
そんな坂本龍馬の先祖は、本能寺の変の後に土佐国・殖田郷才谷村(うえだごうさいだにむら/高知県南国市才谷)に落ちてきた明智光秀の一族だとか。
明治16年、同郷の坂崎紫瀾(さかざきしらん)が坂本龍馬を主人公にした小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)には「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り」と記されていて、坂本家でも言い伝えとして伝承されているのだとか。
高知県立坂本龍馬記念館に確認すると、「それを実証する史料はありませんが、坂本家には伝承があるので『こういう説もあります』という程度で紹介しています」とのこと。
では、龍馬の子孫が「坂本家のルーツ」とする近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市坂本)に出かけてみましょう。
滋賀県の湖西に位置する坂本は、比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として発達した歴史の地。
比叡山延暦寺の建つ、比叡山の麓、比叡山に登る坂の下(もと)という地名で、今でも比叡山の京都側を西坂本、滋賀大津側を東坂本と呼び習わしています。
そんな比叡山を元亀2年(1571年)、織田信長は焼き討ちにしていますが、その直後に信長は明智光秀に命じて坂本城を築かせています。
比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の確保のためにも坂本の地は重要だったわけです。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスも「天下の名城」と称えた坂本城の半分は、静かに琵琶湖の湖底に眠っていますが、往時には城内から直接船に乗り込むことのできる水城でした。
坂本城址公園(滋賀県大津市下阪本3-1)が整備されているほか、かつての坂本城の城門は、比叡山麓の西教寺(滋賀県大津市坂本5-13-1)総門と天台宗の名刹・聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ/滋賀県大津市比叡辻2-4-17)の表門(国の重要文化財)として移築されています。
また、比叡山の麓、大津市の坂本地区は、大津市坂本伝統的建造物群保存地区になっていて、歴史散策にも絶好です。
坂本さんなら和泉市阪本は必踏の地
坂本さんのルーツをさらに遡ってみれば、武内宿禰(たけうちのすくね=記紀に伝わる古代日本の人物)の末裔が、和泉国和泉郷坂本(大阪府和泉市阪本町)を領して坂本臣(さかもとのおみ)となったことに始まるという説も。
古くからの坂本氏の本拠地だった和泉郷坂本には、かつて坂本(土居)城が聳えていたとのこと。
白鳳時代に建立された坂本寺の跡には現在、禅寂寺が建っていますが、禅寂寺の前身、坂本寺は飛鳥時代のこの地の豪族、坂本臣が氏寺として建てたものというので、坂本さんの貴重なパワースポットといえるでしょう。
昭和40年代に古代寺院・坂本寺の発掘調査が行なわれ、西に塔、東に金堂が並ぶ法隆寺式伽藍配置で堂宇が並んでいたことが確認され、出土した瓦などの研究から7世紀中頃から寺院の造営が始まったと推測されています。
塔跡から移された塔心礎(とうしんそ=禅寂寺塔刹柱礎石)は大阪府の文化財に指定。
やがて、この和泉国から近江国や、讃岐国、越後、和泉、河内などに坂本氏は移動し広まっていくので、坂本さんのルーツ中のルーツともいえるのが、この坂本寺跡・禅寂寺ということに。
高知県では多気坂本神社が貴重なルーツ
古代の街道が峠を超える際、その入口は坂本。
上野国碓氷郡坂本は上信国境の碓氷峠(うすいとうげ)の上州(群馬側)の入口で、現在の安中市松井田町坂本。
この上州・坂本を発祥とする坂本氏に坂本君や坂本朝臣(さかもとのあそみ)がいます。
美濃国大野郡坂本を発祥とする坂本氏、摂津の難波吉士(きし)流、藤原北家二階堂流、下野の宇都宮流、紀伊の清和源氏武田氏流などの坂本氏も知られています。
また、熊野本宮社家、熱田大宮司、志賀海神社などにも坂本氏が。
出羽国東根には清和源氏斯波氏流天童氏族の坂本氏が東根城を居城としていました。
相模国高座郡深見の深見藩主の坂本氏は、武田信虎・武田信玄・武田勝頼の武田三代に仕え、深見神社(神奈川県大和市深見)を創建、墓は同じ大和市の仏導寺にあります。
越後国魚沼郡(新潟県南魚沼市大倉)には「八海大明神」と呼ばれる坂本神社が鎮座するなど全国に坂本という地名、そこから生まれたであろう氏族がいます。
高知県安芸郡奈半利町の多気坂本神社(高知県安芸郡奈半利町乙2586)は、坂本臣の祖で武内宿禰の子・葛城襲津彦命(かつらぎのそつひこのみこと)を祀る神社で、『延喜式』にも記載の古社。
『土佐国式社考』にも「坂本神社は布師臣・坂本臣の祖として葛城襲津彦命を祀る」としています。
四国の坂本さんにとっては重要な場所のひとつです。
坂本さんは熊本県では5位となる大姓
坂本さんは、和歌山で大姓10位、四国では坂本龍馬の故郷、高知県で11位、九州では熊本県が5位(0.85%)、鹿児島では「坂元」姓が大姓16位で、東海地方は少ない傾向が。
有名人では、坂本冬美が和歌山県出身です。
家紋は、十本骨扇、丸に三つ丁子、亀甲、五三桐、蔦、二つ巴、木瓜(もっこう)、剣片喰(かたばみ)、九曜、桔梗など。
坂本龍馬の坂本家は、明智氏の桔梗紋の流れを汲んだ違枡桔梗(ちがいますききょう)。
坂本さんのルーツを探せ! | |
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