佐々木さんのルーツを探せ!

日米で抑え投手として活躍した大魔神こと佐々木主浩は宮城県仙台市の出身。
ファッションモデルの佐々木希は秋田県秋田市。
宮本武蔵のライバル・佐々木小次郎は『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)とされている。
実は、佐々木さん、ルーツは非常に限られている。
数多い日本の苗字のなかでも、家系の出所がほぼ一系というのは渡辺さんや菊地さんとこの佐々木さんぐらいなものだ。

佐々木さんのルーツは沙沙貴神社

4月末から、5月始めの連休の頃、釣り糸を垂れたような「うらしま草」がにょきにょきと咲き、5月中頃、「なんじゃもんじゃ」が一斉に雪のような白い花をつける沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、全国で約70万人という佐々木さんと、300万人はいるといわれる佐々木一族の氏神なのである。

佐々木氏は近江国蒲生郡佐々木(滋賀県近江八幡市安土町)を発祥とする。
当地には元来、沙沙貴神社を氏神とする沙沙貴山君(ささきやまのきみ=平安時代まで近江に勢力を有した古代の豪族。『日本書紀』には「狭々城山君韓袋宿裲」と記されている)がいたが、のち、宇多源氏の源成頼(みなもとのなりより=平安時代中期の公家)が佐々木庄に住んで佐々木姓を名乗ったという。

では、由緒正しい佐々木姓のルーツで佐佐木大明神を祀る沙沙貴神社を訪れてみよう。

地元近江八幡市安土町の話では、
「神話によれば、少彦名神(すくなひこなのかみ)がササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説からササキ神社が始まった」
とのこと。

滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1番にある沙沙貴神社の、7000坪の鬱蒼とした杜の見事さ。
鳥居をくぐって低い石垣の続く参道を経て神社に向かうと、豪壮な茅葺きの楼門があらわれる。
平安・鎌倉様式を継承し江戸中期に再建された茅葺きの楼門、東西廻廊と四国丸亀藩主京極家によって弘化5年(1848)に建築された重要文化財の本殿、権殿、拝殿などの素晴らしさ。
整然と条理が引かれた玉石が美しく、神紋の「七つ割り四つ目結」が瓦に、幕に、石柱に、楼門の脇に立てられた提灯(下の写真参照)に、本殿前の賽銭箱にも印されている。
全国に神社は多数あるが、この神社ほど信仰が現在に生きている神社も珍しいであろう。

祭神は当然のように、沙沙貴山君の始祖である大毘古神(おおひこのかみ)や宇多源氏の始祖である宇多天皇、佐々木(近江)源氏の始祖である敦実(あつみ)親王など四座五柱が祀られている。四座五柱の総称が「佐佐木大明神」で、佐々木源氏の氏神さまとして尊崇されている。
4月第1土曜には全国の佐々木さん必見の『沙沙貴まつり』(夜に沙沙貴神社で大松明に奉火)も齋行されている。

沙沙貴神社の楼門
沙沙貴神社の楼門。江戸時代中期の建築ですが平安時代の様式を再現して佐々木さんのルーツらしい雰囲気です
沙沙貴神社拝殿

沙沙貴神社

沙沙貴神社

2018年1月13日

横浜にも佐々木さんゆかりの地が

佐々木源氏が歴史の表舞台に出たのは、治承4年(1180)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時。

佐々木秀義(ささきひでよし=近江国蒲生郡佐々木庄を領有した平安末期の武将)の息子5人(定綱、経高、盛綱、高綱、義清)が源頼朝の挙兵を助け、華々しい活躍をしたからだ。
とくに佐々木高綱(四郎高綱)は『平家物語』や『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られている。
このとき高綱は、頼朝に与えられた名馬「生唼(池月)」(いけづき)にまたがり、「磨墨」(するすみ)に騎乗する梶原景季と先陣を争い勝利する。
佐々木高綱の館は現在の横浜市港北区鳥山町にあったとされ、鳥山八幡宮は領主・佐々木高綱が鎮守として祀ったと伝えられる。祭神は應神天皇(おうじんてんのう)だ。
また鳥山八幡宮から歩いて5分ほどのところにある小さな馬頭観音堂は、高綱が生唼を祀った駒形明神の跡といわれてる。
横浜市港北区鳥山町は、佐々木さんのパワースポットに違いない。

『宇治川先陣争図』
『宇治川先陣争図』

松江にも佐々木さんのルーツが

松本市島立にあるの大宝山高綱院正行寺は、佐々木高綱の建立という。
寺の縁起では出家して了智と名乗り、佐渡に流された親鸞に弟子入りし、親鸞の常陸入りの際に信濃に正行寺を開いたという。
了智(佐々木高綱)も残されているのだ。了智は鎌倉末から南北朝時代の人で、直接佐々木高綱にはつながらないという説もあり定かでない。
石川数正が松本藩を開いた時に正行寺を城下に遷しているため、松本には今でも2つの正行寺がある。

島根県松江市浜乃木の善光寺も佐々木高綱による開基で、こちらにも没した地という伝承があり、墓もある。
本尊の金銅造阿弥陀如来立像は一光三尊のいわゆる善光寺如来の典型。鎌倉時代初期の作で、佐々木高綱の守本尊(まもりほんそん)といわれる(国の重要文化財)。
有名な乃木希典(のぎまれすけ=日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇没後の殉死で有名)は、出雲源氏佐々木氏の子孫・佐々木高綱末裔を称したため、松江の善光寺には乃木希典の遺髪塔がある(佐々木高綱の次男・二郎左衛門尉光綱は出雲国野木に住し野木・乃木氏の祖となったという)。

やがて佐々木氏は嫡流である六角佐々木氏と京極佐々木氏に分かれ、六角、京極、三井、乃木、黒田、竹腰、谷、山崎など220余の姓が、今も佐々木源氏として息づいている。

さて、この六角佐々木氏の居城が史上最大級の山城である観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)だ。
近江の国の湖東平野の中心地に聳える観音寺山は、平安時代の末期から戦国時代に渡り、およそ400年間、近江源氏の佐々木氏、後に近江守護・六角氏の居城となった。
標高432.7mの繖(きぬがさ)山の山上に築かれた城は「日本100名城」のひとつ。
守護職として中世近江国を支配した佐々木六角氏のその居城跡は、曲輪や城戸口を形成している大石塁が全山を取巻き、豪壮雄大な大城塞であったと思われる。
織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興した際に六角氏は信長に反目し、ついに観音寺城は無血開城している。
昭和44年〜45年の発掘調査で全山から石垣、石段、排水溝、井戸等が発見されている。

西国三十三所第32番札所の観音正寺は、観音寺城の一角にあり、佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。
本堂と本尊は、平成5年の火災で焼失。現在の木造入母屋造の本堂は平成16年の再建だ。

16世紀の石垣が現存する観音山城
16世紀の石垣が現存する観音山城
再建された観音正寺の本堂
再建された観音正寺の本堂

一方、湖北の主であった京極佐々木氏は、関ヶ原伊吹町の上平寺(じょうへいじ)城を本拠にしていたという。
戦国時代には京極高清が北近江上平寺に守護所を構え、守護大名への道を歩むが、家臣・浅井氏の台頭で実権を失っている。
京極高次は秀吉に仕え、悲願である京極氏の復興を果たし、関ヶ原の戦いでは、東軍に与して大津籠城戦の功績で小浜藩主となっている。
上平寺の伊吹神社境内全域が京極氏館跡となっている。
京極氏館跡や庭園跡・家臣屋敷跡・上平寺城跡・弥高寺跡といった京極氏関連の遺跡群は、史跡「京極氏遺跡 京極氏城館跡・弥高寺跡」に指定されている。

──佐々木氏一族といわれる人を挙げてみれば、安倍貞任、平清盛、建礼門院、児島高徳、角倉了以、出雲の阿国、山中鹿之介、黒田長政、鍋島直茂、藤堂高虎、池田輝政、生駒親正、伊達政宗、木村重成、佐々木小次郎、間宮林蔵、杉田玄白、三井高利、黒田清隆、西郷隆盛、乃木希典、大山巌、黒田清輝、東郷平八郎、松下幸之助など。
いやはや大変なものである。

佐々木姓は岩手で大姓2位、北海道、青森、秋田で3位、東海地方や南九州には少ない。

代表家紋は四つ目結(ゆい)で、結は氏族の団結を象徴している。他に亀甲、梅鉢、桧扇、柏、桐など。

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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