光浄院は、三井寺の山内で最も格式の高い子院で室町時代に山岡氏(甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で六角氏綱の下で「湖南の旗頭」となり、瀬田城を守った)によって建立された名刹。現在の客殿は豊臣秀吉の闕所(けっしょ=堂舎の破却)後の1601(慶長6年)、当時の住持・山岡道阿弥により再建されたもので、国宝になっています。
桃山時代の代表的な書院建築では国宝に!
山内で最も格式の高い子院、光浄院。
光浄院の外郭には豪快な石垣が組まれ、さながら城郭のよう。
光浄院客殿の一之間、二之間には狩野派による華麗な障壁画が残されており、桃山時代における代表的な書院建築となっています。
現在一般公開はされておらず、特別拝観として3名以上で事前予約が必要。
ホームページの申込フォーム、往復ハガキ・特別拝観申込書で事前に申込み(3名以上)を。
近江を代表する名庭園も必見です。
三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号し、第15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ出世。
1572(元亀3)年には、将軍・足利義昭の命で還俗し(武士となって)山岡景友と名乗ります。
武田信玄の上洛に呼応した時の将軍・足利義昭に味方し、近江石山城に立て籠もって抗戦。
織田信長軍に敗れて瀬田城に逃れています。
織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏、織田家に仕官し、本能寺の変の際にはその義から瀬田橋に火を放って、安土城に向かう明智軍の到着を遅延させ、その功績を羽柴秀吉に認められています。
1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いの後、剃髪して山岡道阿弥と名乗るように。
秀吉の死後には、黒田長政らを通じて徳川家康に接近。
関ヶ原の合戦では東軍に与して甲賀水口城を降して手柄を挙げ、常陸古渡1万石の大名へと出世します。
1603(慶長8)年、没。
その子、山岡景以(やまおかかげもち)も旗本として家康、秀忠、家光に仕えています。
三井寺・光浄院 | |
名称 | 三井寺・光浄院/みいでら・こうじょういん |
所在地 | 滋賀県大津市園城寺町246 |
関連HP | 三井寺公式ホームページ |
電車・バスで | 京阪石山坂本線三井寺駅から徒歩12分 |
ドライブで | 名神高速道路大津ICから約3.5km |
駐車場 | 園城寺駐車場(350台/有料) |
問い合わせ | 三井寺(園城寺) TEL:077-522-2238 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
取材・画像協力/滋賀県
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