浜田城

浜田城跡

島根県浜田市にある近世の城郭が浜田城跡で、「続日本100名城」に選定。元和5年(1619年)に初代・浜田藩主の古田重治(ふるたしげはる)が築城し、慶応2年(1866年)7月18日、長州軍の攻略の際に松平武聡(まつだいらたけあきら)が自ら火を放ち退城するまで、浜田藩6万1000石の居城となった城です。

浜田藩の藩庁も今では石垣が残るのみ

浜田城跡

徳川頼宣の紀州転封にともなって、元和5年(1619年)2月13日、古田重治は伊勢・松阪から浜田に国替えに。
領内を検分の後、標高70mの鴨山に浜田城の築城を決め、元和9年(1623年)には城郭工事と城下の町割を完了しています。
城の北側は断崖で、眼下に日本海(松原湾)を望み、西と南は浜田川が天然の堀割の役目を果たしています。

東を石垣で防御した城郭内には、本丸に高さ14mの三重櫓(天守)、二ノ丸に櫓台や本丸常番所、三ノ丸に諸役所、土蔵、表屋敷を配していました。
城下町は浜田川で囲まれた紺屋町・新町・片庭町・蛭子町・門ケ辻町・檜物屋町・辻町・原町で、「浜田八町」と通称。

慶応2年(1866年)の落城と、明治5年の浜田地震で、浜田城の建物はその姿を失いました。
現在、城跡はソメイヨシノ300本が植栽された城山公園として整備され、本丸周辺の石垣が往時を偲ばせています。
ただし登城する道は往時のものとは異なり、大手口も住宅地となってしまっています。

大正3年発表の『カチューシャの唄』(劇団芸術座の『復活』劇中歌)を作詞した島村抱月(しまむらほうげつ)は那賀郡小国村(現・浜田市小国)の出身。
浜田で働きながら夜学に通った関係で、「予が小学時代と独学時代の記憶はすべて浜田にあり」と故郷を懐かしんでいます。
浜田城内には島村抱月碑が文学碑、司馬遼太郎氏が碑文を執筆した「浜田藩追懐の碑」もあります。

なお、島根県内では、松江城(松江市/出雲国松江藩の藩庁)、月山富田城(安来市)、津和野城(津和野町/石見国・津和野藩の藩庁)が日本100名城に選定されていますが、続日本100名城は浜田城(石見国・浜田藩の藩庁)のみとなっています。

「浜田藩追懐の碑」 司馬遼太郎

石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
 石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
 石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
 東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、西方には長門・周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
 石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を堀り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
 浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。
 以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
 長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
 ついには浜田城下に押しよせた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。

浜田城
名称 浜田城/はまだじょう
所在地 島根県浜田市殿町
関連HP 浜田市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR浜田駅から徒歩20分
ドライブで 浜田自動車道浜田ICから約4.8km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 浜田市観光協会 TEL:0855-24-1085
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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2023年1月28日

 

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