姫路城・井戸櫓(井郭櫓)
北腰曲輪の塩櫓同様に、櫓の中に井戸を構えるという珍しい櫓が井戸櫓(井郭櫓)。井郭櫓(いのくるわやぐら)とも通称されていますが、井戸曲輪にはないため、井戸櫓が正しい呼び名。備前門の近くに位置し、備前丸に居館を構えた池田氏の…
北腰曲輪の塩櫓同様に、櫓の中に井戸を構えるという珍しい櫓が井戸櫓(井郭櫓)。井郭櫓(いのくるわやぐら)とも通称されていますが、井戸曲輪にはないため、井戸櫓が正しい呼び名。備前門の近くに位置し、備前丸に居館を構えた池田氏の…
南都七大寺の1つに数えられる奈良の古刹が元興寺(がんごうじ)。蘇我馬子が飛鳥(あすか)に建立した日本最古の仏教寺院・飛鳥寺(法興寺)がその前身。平城京で元興寺(がんごうじ)と名前を変え、奈良時代には東大寺に次ぐという寺格…
お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「一枚、二枚・・・」と皿を数えるという怪談の舞台ともいわれるのが姫路城・上山里にあるお菊井戸。釣瓶取井戸(つるべとりいど)が正式名ですが、現在では「お菊井」という石柱まで配されています。ところが…
全国3000におよぶ春日神社の総本社が奈良の春日大社。710(和銅3)年、藤原不比等(ひじわらのふひと)が平城京鎮護のため、鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと=鹿島神)の分霊を勧請し、御蓋山(みかさやま=春日山)…
姫路城の本丸を守る搦手側の曲輪が井戸曲輪。その井戸曲輪に建つのが帯郭櫓(おびくるわやぐら)で、帯の櫓横から下った場所にあります。二重二階の櫓は、慶長年間の築と推測され、国の重要文化財となっています。腹切丸という名もありま…
姫路城の帯曲輪(おびくるわ)と上山里丸を結ぶ場所に建つ脇戸付高麗門が「りの門」。解体修理中に軒天井板の裏面に慶長4年という墨書が発見され、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが判明しており、国の重要文化財に指…
備前丸の入口にあるので備前門と通称されていますが、江戸時代の正式名称は東入口門。築城当初、池田家が城主だった時代には備前丸に城主の居館(本丸御殿)があったことから、備前丸防備の要として機能した門です。居館のなかでも御台所…
姫路城の搦手(裏口)側の登城ルートと、備前丸からの登城道とをつなぐ位置にある小さな門が「ちの門」。横には番所があり、井郭櫓が聳えています。番所には、常時警護の武士が詰め、搦手からの出入りを監視していました。慶長年間築の二…
姫路城の搦手(からめて=裏側)の最後を守る門が「との一門」。切妻造りの楼門で、延長20mに及ぶ「との一門東方土塀」とともに国の重要文化財に指定。「との一門」は、木の地肌を活かした素木造り(しらきづくり)の門で、近世城郭以…
奈良市街の背後にそびえる春日山(標高294m)は、古くは御蓋山(みかさやま)とも呼ばれ、山頂には春日大社第一の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が768(神護景雲2)年に白鹿に乗り天降ったとされている神跡があり、本宮…
姫路城の連立天守群の建つ天守台の北西、乾小天守(いぬいこてんしゅ/乾=北西)北側の石垣に「姥が石」(うばがいし)と通称される伝説の石があります。築城の際の転用石にまつわるエピソードですが、実は後世の創作という疑いも大で・…
水一門(水の一門)に続いて連続して登場するのが水二門(水の二門)。水一門と同じ簡素な棟門で、違いといえば水一門が片開きなのに対し、水二門は両開きという点。水二門は慶長年間の築で国の重要文化財に指定。
姫路城の天守台を守るのが水の門。その最初の門が水一門(水の一門)で、「ほの門」をくぐった時に立ちふさがる巨大な油壁の陰に隠された一間棟門(いっけんむねもん)が水一門(水の一門)です。少しUターンするような構造で、さらに下…
姫路城「ほの門」をくぐった先にあるのが油壁。山土に豆砂利を加え、餅米の研ぎ汁や粥(かゆ)などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたものと説明されていますが、実際には菜種油などを混ぜ込んでいる可能性も大です。工法から…
姫路公園に入り大手門をくぐると三の丸広場。広場を抜け、登城券売場で入城券を買い、最初に目にするのが二の丸の入口を固める菱の門となります。城内にある21門のうちで最大の門で、柱や扉はケヤキ材を使っていますが、両柱の上の冠木…
法隆寺は、寺伝などでは607(推古15)年、聖徳太子と推古天皇により創建されたと伝わる古寺で、世界最古の木造建築群が飛鳥時代の姿を現代に伝えています。参道の松並木を抜けると、正門である南大門(国宝)。境内は西院と東院に分…
法隆寺の西院伽藍の東、宝物館である大宝蔵院の南側に、細殿(ほそどの)と並んで建つ「双堂」(ならびどう)のひとつが食堂(じきどう)。奈良時代の建築様式で、創建時には政所という法隆寺の寺務所だったもの。平安時代に入って、僧が…
法隆寺の西院伽藍の西側に建ち、東側の聖霊院・東室とともに古代に全寮制の学問寺だった頃の名残の僧坊で、多くの律僧たちがここで生活し起居していました。現存する建物は、鎌倉時代の1231(寛喜3)年の建物で国宝。聖徳太子が著し…