山縣有朋誕生地
山口県萩市川島、萩城下を流れる橋本川堤防近くにあるのが、山縣有朋誕生地(やまがたありともたんじょうち)。天保9年閏4月22日(1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村で生まれた山縣有朋。生誕地には「元帥公爵山縣有…
山口県萩市川島、萩城下を流れる橋本川堤防近くにあるのが、山縣有朋誕生地(やまがたありともたんじょうち)。天保9年閏4月22日(1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村で生まれた山縣有朋。生誕地には「元帥公爵山縣有…
山口県萩市須佐高山、日本海に突き出た岬の先端、海苔石園地から北に続く海岸が、須佐ホルンフェルス。海底に堆積した砂泥互層からなる須佐層群に、高温の火成岩体(高山はんれい岩)が貫入し、その熱で変成作用を受けて誕生した断崖で、…
山口県萩市椿東、松陰神社(しょういんじんじゃ)境内、駐車場の横にあるのが、薩長土連合密議之処碑(さっちょうどれんごうみつぎのところのひ)。明治百年記念で昭和43年に建立された碑ですが、この石碑が立つのが実は鈴木勘蔵の宿が…
山口県萩市見島、見島の玄関、本村港(見島港)の北東にある律令時代の条里制の名残とも推測できる田が、八町八反(はっちょうはったん)。「千年の田んぼ」とも名付けられ、見島ジーコンボ古墳群に眠る国境警備の武人集団が自活のために…
山口県萩市の沖合44.3kmに浮かぶ見島の北部、萩・菊ヶ浜商港からの萩海運高速船「ゆりや」が入港する宇津港(見島漁港)の北にある、断崖絶壁の岬、観音崎に建つのが、宇津観音堂。赤褐色の溶岩の崖上に建つ観音堂は、パワースポッ…
山口県萩市の沖合44.3kmに浮かぶ見島の最北端の岬、長尾ノ鼻に建つ灯台が、見島北灯台。海の難所として知られる見島北側の航海、漁の安全のため、昭和38年1月15日に初点灯した灯台で(光達距離は12.0海里、22.2km)…
山口県萩市の沖合44.3kmに浮かぶ見島の南東部に位置する大規模な古墳群が、見島ジーコンボ古墳群。海岸に沿って長さ300m、幅50m〜100mの範囲に積石塚(つみいしづか)スタイルで200基の古墳が残され(7世紀後半〜1…
山口県萩市東浜崎町、菊ヶ浜商港にある萩海運の見島行き、相島行き、大島行きの離島航路の乗り場が、萩海運(見島・相島・大島航路)乗船場。見島へは高速船「ゆりや」、相島へ定期船「つばき2」、大島へ定期船「はぎおおしま」が就航し…
山口県萩市の山中にある日本の伝統的な製鉄方法であるたたら製鉄(砂鉄を木炭で燃焼し鉄を得る方法)の遺跡が、大板山たたら製鉄遺跡。生産された鉄は西洋式軍艦建造に使われており、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船…
山口県萩市にある萩藩(長州藩)が洋式帆船を建造した造船所跡が、恵美須ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょあと)。数少ない西洋式造船所の遺構で、経済産業省の近代化産業遺産、そして世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製…
山口県萩市の鶴江地区と浜崎地区を結ぶ、萩市営の渡船が鶴江の渡し。正式名称は市道浜崎鶴江線で市道の扱いのため、無料で乗船できます。萩城下の東を流れる松木川を渡るもので、上流側の雁島橋まで橋がないため、市民、観光客の貴重な足…
山口県萩市、平安古(ひやこ)の総門(南の総門)南側に流れる萩城外堀の新堀川に架かり、堀内と平安古地区を結ぶ橋が平安橋。当時は城下町から萩城三の丸への通路として利用されていたという。現在の橋は明和年間(1764年~1771…
山口県萩市、萩城下の平安古(ひやこ)エリア(萩市平安古地区伝統的建造物群保存地区)にあるのが久坂玄瑞誕生地(久坂玄瑞旧宅跡)。久坂玄瑞(くさかげんずい)は、天保11年(1840年)、萩藩医・久坂良迪(くさかりょうてき)の…
山口県萩市堀内地区、萩城三の丸、三年坂筋、平安古(ひやこ)の総門に隣接していた児玉家(幕末には児玉三郎右衛門邸)の長屋門が、旧児玉家長屋門。萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区にある、なまこ壁の長屋門。児玉家は、萩藩寄組(…
山口県萩市、松陰神社の敷地内にある、吉田松陰の実家・杉家旧宅で、吉田松陰が謹慎生活を送った建物が吉田松陰幽囚ノ旧宅。吉田松陰が幽囚した杉家旧宅には、三畳半の部屋が当時のまま残されており、見学が可能。ここで松陰は、読書と著…
山口県萩市川島地区、萩を流れる阿武川の分岐にあたる川島樋門を起点に、幅1.5m、延長約2.6kmの人工用水が藍場川。萩藩(長州藩)6代藩主・毛利宗広(もうりむねひろ)が計画し、元文4年(1739年)に新堀川まで開削された…
山口県萩市旧松本村地区にある伊藤博文が松下村塾に通ったという伊藤博文旧宅近くに建つのが伊藤博文別邸。明治41年、伊藤博文がハルビン駅で射殺される2年前に、東京府下荏原郡大井村(現・東京都品川区大井3丁目)に建築した別邸の…
山口県萩市、松陰神社近くの椿東地区にあり、伊藤博文が14歳~28歳までの13年間の家が伊藤博文旧宅。博文は、ここから松下村塾(しょうかそんじゅく)にも通っていたのです。茅葺き入母屋造りの平屋の旧宅には、勉強部屋や母に叱ら…