判官塚古墳

判官塚古墳

栃木県鹿沼市北赤塚町、墳丘長60.90mの前方後円墳が、判官塚古墳(はんがんづかこふん)。個人の所有地のため、墳丘内への立入りはできませんが、後円部に横穴式石室が現存しています。判官塚古墳の名は、九郎判官源義経が隠れ潜んだことに由来するなど諸説あり定かでありません。

ヤマト王権と密接な関係のあった首長の墳墓

欧州へ逃げ延びる際に、九郎判官義経が隠れた、あるいは馬を埋めたという伝説(義経北行伝説)が名前の由来ともいわれ、周辺の小字も「判官台」です。
西方氏の祖とされる烏丸大納言(からすまだいなごん)が冠を埋めたと伝わることで冠塚とも称されています。
周辺は田圃なので、田の中に忽然と古墳が残されるという不思議な光景に。

かつては判官塚古墳を主墳に、周囲に十数基の円墳があり、北赤塚古墳群を形成していましたが、昭和初期の耕地整理で判官塚古墳以外は失われています。

墳丘には葺石が配され、円筒埴輪などが出土し、古墳の形状や出土品から6世紀後葉の築造だと推測されています。
また、墳丘北側の水田で、平成17年に発見された巨石(現在は後円部北側に置かれています)は、判官塚古墳の石室の一部です。

古墳時代後期の6世紀、日本列島の各地で造営された墳丘長60m以上の大型前方後円墳は、関東エリアに集中しています。
そのうち律令制時代の旧国名に当てはめると上野国(群馬県)97基、下野国(栃木県)16基、常陸国(茨城県)38基、下総国(千葉県北部・茨城県南西部)11基、上総国(千葉県中央部)28基、武蔵国(東京都・埼玉県、神奈川県の一部)26基、安房国(千葉県南部)0基、相模国(神奈川県)0基で、北関東に多いことがわかります。
ヤマト王権が関東に勢力を伸ばし、その影響を受けた支配者が長となっていたことの証でもあるのです。

下野国(栃木県)では、5世紀末に小山市を流れる思川と姿川の合流点に摩利支天塚古墳(墳丘長117m)、6世紀初頭に琵琶塚古墳(123m)という100mを超える巨大な前方後円墳が築かれていますが、古墳時代後期になると都賀郡に集中(下野国府も都賀郡、現在の栃木市に設置)し、関東地方がヤマト王権(畿内王権)の経済的・軍事的基盤としてきわめて重要な地域だったことがよくわかります(判官塚古墳から下野国庁跡へは13km、車で20分ほどの距離です)。

判官塚古墳
名称 判官塚古墳/はんがんづかこふん
所在地 栃木県鹿沼市北赤塚町895
関連HP 鹿沼市公式ホームページ
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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