山梨県甲府市下曽根町、甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園にある墳丘長169m、山梨県最大、東日本でも第5位という巨大な前方後円墳が銚子塚古墳(甲斐銚子塚古墳)。隣接する丸山塚古墳とともに国の史跡となっています。4世紀後半に築かれた巨大な古墳は、曽根丘陵の北麓に位置し、前方部を東に向けています。
東日本第5位という巨大な前方後円墳
前方部は、幅68m、高さ8.5mで2段築成、後円部は直径92m、高さ15mで3段築成となっています。
地元では「伊勢塚」とも呼ばれ、伊勢講の信仰の対象となっていました。
石室内からは、大量の朱とともに青銅鏡5面、碧玉製車輪石(へきぎょくせいしゃりんせき=碧玉製の腕飾り様の遺物)・石釧(いしくしろ=石製の腕輪でおもに碧玉製)、鉄剣、鉄刀、南海産スイジガイ製貝環(かいわ)など
出土した鏡には三角縁神獣鏡も含まれることから、甲府盆地一帯がごく早い時期に、ヤマト王権に組み込まれたことが推測できます。
近年の研究では、ヤマト王権は、各地の豪族が連携した連合政権的な色彩が強かったことが想定されており、この墳墓もヤマト王権を支えた首長の墓と考えられているのです。
銚子塚古墳の北東に、直径72mの丸山塚古墳(円墳)があり、丸山塚古墳も銚子塚古墳に続く、首長の墓と考えられています。
山梨県内の古墳時代前期の変遷は、小平沢古墳(前方後方墳/45m/甲府市下向山)→天神山古墳(前方後円墳/132m/甲府市下向山町)→大丸山古墳(前方後円墳/120m/甲府市下曾根)→甲斐銚子塚古墳・岡銚子塚古墳(前方後円墳/92m/笛吹市八代町)→丸山塚古墳(円墳/72m)。
銚子塚古墳の構築以降は、甲府盆地では大きな古墳が築かれていないことから、ヤマト王権下で、甲府盆地の重要性が低下したとも推測できるのです。
埋葬者に関しては、甲府盆地一帯(古代の甲斐)を支配したの大首長ということしかわかりません。
『日本書紀』、『古事記』に日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際、酒折宮(甲府市酒折の古社で日本武尊東征時の行宮という伝承があります)で「御火焼之老人」(みひたきのおきな)と問答歌を交わし、その返答が絶妙だったので「東国造」(あづまのくにのみやつこ)の称号を与えたという記述があります。
この「御火焼之老人」が銚子塚古墳の埋葬者だとする説もあります。
ちなみに、「銚子塚」とは江戸時代の前方後円墳に見られる通称。
そのため、ほかの銚子塚古墳と区別するため「甲斐銚子塚古墳」とも呼ばれています。
江戸時代から昭和初期には伊勢信仰の隆盛から伊勢講の信仰対象として山頂に石祠、石灯籠など置かれ、「伊勢塚」と称されていました(史跡整備で伊勢講関連の遺物は移転しています)。
昭和3年に竪穴式石室が発見されたのも伊勢講の幄舎(あくのや)建設工事がきっかけ。
平成13年に開始された第2次調査では後円部北側で「突出部」(テラス状の平坦部が半円形に張り出した)を発見。
古墳の祭祀施設と推測でき、東日本の前期古墳では初めての発見となっています。
発掘された遺物の多くは、山梨県立考古博物館(銚子塚古墳から徒歩3分)に収蔵展示されています。
銚子塚古墳出土の三角縁神獣鏡
銚子塚古墳出土の三角縁神獣鏡(縁の断面部分が三角形で、背面の模様に「神と獣」が刻まれる鏡)は、備前車塚古墳(岡山県岡山市)、群馬県藤岡市三本木所在の古墳、藤崎遺跡(福岡県福岡市)出土の鏡と同型の鋳型をもとに作られていたことが判明しています。
背面部の年号や全国的な広がりから、『魏志倭人伝』に卑弥呼に与えた「銅鏡百枚」の鏡とする説もあり、卑弥呼畿内説とともに論争を呼んでいます。
銚子塚古墳 | |
名称 | 銚子塚古墳/ちょうしづかこうふん |
所在地 | 山梨県甲府市下曽根町 |
関連HP | 山梨県曽根丘陵公園公式ホームページ |
電車・バスで | JR甲府駅からタクシーで30分 |
ドライブで | 中央自動車道甲府南ICから約1.8km |
駐車場 | 曽根丘陵公園駐車場を利用 |
問い合わせ | 曽根丘陵公園管理事務所 TEL:055-266-5854/FAX:055-266-6586 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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