愛知県岡崎市、日本100名城にも選定される岡崎城は、徳川家康が出生した城として有名。天守は明治時代に取り壊され、現在の天守は、昭和34年の再建で、元和3年(1617年)に本多忠利が再建したものをモデルとしたもの。2〜4階は、江戸時代の岡崎を紹介する資料館として公開されています。
江戸時代には「神君出生の城」として神聖視


岡崎はわずか5万石ですが、家康生誕の岡崎城は諸大名や東海道を旅する旅人からも「神君出生の城」として神聖視されて仰ぎ見られた存在。
現在の岡崎城の地に、本格的に城を築いたのは、本拠を安城から岡崎へ移した松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)。
尾島城(現・西尾市)、今橋城(後の吉田城/豊橋市)を手中に収め、さらには尾張に侵攻し岩崎城(日進市)、品野城(瀬戸市)を攻略した享禄3年(1530年)~享禄4年(1531年)頃。
当時の城は龍頭山の山頂に本丸が置かれた中世的な平山城でしたが、江戸時代初期の慶長5年(1600年)〜正保2年(1645年)、岡崎藩初代藩主・本多康重(ほんだやすしげ)、2代・本多康紀(ほんだやすのり)、3代・本多忠利(ほんだただとし)が近世的な平城に修築したもの。
徳川家康は、三河松平家第8代・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)、平山城時代の岡崎城二の丸に生誕。
二の丸は誕生曲輪(たんじょうくるわ)とも呼ばれ、今も産湯(うぶゆ)の井戸が残されています。
家康が5歳の時、松平広忠は尾張の織田信秀に対抗するため、駿河の今川義元の配下に収まりますが、そのため竹千代(家康の幼名)を人質として駿河の府中(現在の静岡市)に送ることに。
こうして岡崎城を離れた竹千代ですが田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにあって、織田信秀の人質になるものの、2年後に織田信広との人質交換(名古屋市南区の笠寺観音で交換)でその後は駿府で人質生活を送り、桶狭間の合戦後の永禄3年(1560年)にようやく岡崎城に戻っています。
もしかしたら家康には幼少期の岡崎城の暮らしの記憶は、なかったのかもしれません。

岡崎城の本丸一帯は岡崎公園として整備

江戸時代の岡崎城は、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守が建ち、本丸の北方に持仏堂曲輪、さらに二の丸、北曲輪が配され、二の丸の東側には三の丸と東曲輪、さらに外側に備前曲輪、浄瑠璃曲輪などがあり、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀という厳重な構えの城でした。
現在は、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪などが残るのみで、一帯は岡崎公園として整備されています。
城としての遺構も明治維新後に破却され、現存する往時の建物はありません。
昭和34年築の復興天守、平成5年に木造で復元された大手門、平成22年に江戸時代の工法を忠実に再現して再建された東隅櫓が往時を偲ばせています。
ただし本来の大手門は、北東200mの場所にあったので、あくまで岡崎公園の玄関門という位置づけです。
岡崎城の周辺では、石垣を築くのに適した花崗岩が豊富に産出されることで、見事な石垣がクマれています。
乙川の北側には菅生川が流れて、川沿いにも全長の400mもの石垣が築かれていましたが、発掘調査後に岡崎ニューグランドホテル南側の石垣を修築し、見学ができるようになっています。
岡崎城の本丸に鎮座する龍城神社(たつきじんじゃ)は、かつて岡崎城天守に祀られた東照宮(祭神:徳川家康)。
明和3年(1766年)、岡崎藩主。本多忠粛がにより、東照宮は岡崎城三の丸に遷座し、本丸には本多忠勝を祭神(映世大明神)とする映世神社が創建。
明治9年に東照宮を合祀して龍城神社となったもの。
立身出世、開運にご利益があるとのこと。
三の丸の「三河武士やかた家康館」は家康と三河武士の人間像や歴史的な資料を展示。


| 【完全攻略ガイド】岡崎城 | |
| 名称 | 岡崎城/おかざきじょう |
| 所在地 | 愛知県岡崎市康生町561 |
| 関連HP | 岡崎市公式ホームページ |
| 電車・バスで | 名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩15分。または岡崎公園駅から徒歩10分 |
| ドライブで | 東名高速道路岡崎ICから約3km |
| 駐車場 | 岡崎公園駐車場(229台/有料、8:30〜21:30) |
| 問い合わせ | 岡崎城 TEL:0564-22-2122/FAX:0564-22-2122 |
| 掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 | |








































