愛知県名古屋市熱田区伝馬2丁目、熱田神宮の南、宮の渡し(七里の渡し渡船場)の東にあるのが、熱田羽城・加藤図書屋敷跡(徳川家康幼時幽居地)。徳川家康は、幼少時、織田家の人質として豪商・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)の邸宅に幽閉されていました。
徳川家康は竹千代時代に、織田家の人質として名古屋で生活!
天文16年8月2日(1547年9月15日)、那古野城の織田信秀(織田信長の父)が大軍を岡崎に送って総攻撃の動きをみると、松平広忠(まつだいらひろただ=徳川家康の父)は駿府の今川義元に援軍を求めますが、今川義元は見返りに人質を求めたため、数え6歳になった竹千代(徳川家康)を駿府に送ります。
その途中、田原城主・戸田宗光の裏切りにあり(織田信秀に買収されていました)、織田信秀の元に送られたのです。
織田信秀の庇護を受けていた尾張の豪商が、加藤図書。
加藤図書助順盛の父の代に加藤家は東西に分かれ、順盛は当時「東加藤」と呼ばれていました。
熱田羽城と呼ばれるのは、当初は美濃国の武士で、父・加藤景繁の代に美濃国岩村城の落城で浪人となり、尾張の熱田に蟄居した時の邸宅跡だから。
商人として頭角を現し、熱田湊での貿易で力をつけ、織田家の御用商人になったと伝えられています。
順盛の娘が作り、なぐさみに竹千代に与えたとされる雛人形が現存しています。
ここで暮らす間に若き織田信長(信長は家康より9歳年上です)と対面したと推測できます。
人質時代から20数年後、加藤図書が家康に陣中見舞を送った際、家康は返事をしたため、江戸に幕府を開いた後、加藤家に家康は140余石の土地を与えて、感謝の意を表しています。
その後、竹千代は織田家の菩提寺・萬松寺(万松寺)に移されます。
萬松寺は、織田信秀が織田家の菩提寺として開基した寺。
現在は名古屋の繁華街・大須に建ち、大須の万松寺として知られていますが、当時は織田家の居城、那古野城の南側、現在の名古屋市中区錦と丸の内2、3丁目にまたがる一帯に広大な寺域(5万5000坪)を所有していました。
竹千代は2年ほど幽閉生活を送った後、天文18年11月9日(1549年11月27日)、織田信秀の息子・織田信広(織田信長の異母兄)と竹千代の人質交換(現・名古屋市南区の笠寺観音)で、当時は名古屋よりも繁栄していた駿府へと移送され、今川義元の元で文武を学び、大きく成長していくのです。
この加藤図書は織田信長とも密接な関係で、今川義元を迎え撃った桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)に際し、戦勝祈念のため熱田神宮に立ち寄った織田信長を、加藤図書ら東西の加藤家が出迎え、信長は「今日の戦にかたふ(加藤と勝とうをかけたダジャレ)」と語ったとか。
桶狭間の戦いでは順盛の子・弥三郎が信長の小姓として参戦し、後に山崎城(名古屋市南区呼続元町、現・安泰寺)の城主にもなっています。
熱田羽城・加藤図書屋敷跡(徳川家康幼時幽居地) | |
名称 | 熱田羽城・加藤図書屋敷跡(徳川家康幼時幽居地)/あつたはじょう・かとうずしょやしきあと(とくがわいえやすようじゆうきょち) |
所在地 | 愛知県名古屋市熱田区伝馬2丁目 |
関連HP | 名古屋市熱田区公式ホームページ |
電車・バスで | 名古屋市営地下鉄熱田神宮伝馬町駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 名古屋市熱田区区政部地域力推進室地域力推進係 TEL:052-683-9421/FAX:052-683-9494 |
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