岡城
岡城は、竹田市街の東2kmにあり、1185(文治元)年、緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝わる、平山城の跡。標高325m、周囲は2つの川にはさまれ、阿蘇山の火砕流で形成された断崖絶壁に建っているた…
岡城は、竹田市街の東2kmにあり、1185(文治元)年、緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝わる、平山城の跡。標高325m、周囲は2つの川にはさまれ、阿蘇山の火砕流で形成された断崖絶壁に建っているた…
九州最大の古墳が存在する西都原古墳群特別史跡公園に整備されたのが宮崎県立西都原考古博物館。建物は、古墳の墓石や石室をモチーフとして建てられています。館内では古墳時代を中心に、時代を追いながら東アジアの一地域としての視点か…
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)の広がる台地の中央、第五集団にある古墳群内唯一の横穴式石室墓が鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)。日向の神話では木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を嫁にと願う悪鬼が、姫の父・大山祇神(おお…
西都原古墳群の一部、男狭穂塚(おさほづか)は、墳丘長176m、後円部直径132m、後円部高さ18mの帆立貝形古墳で、九州最大の古墳。宮内庁により、天孫降臨伝説で天照大神の命により、葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治す…
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)にある女狭穂塚(めさほづか)は、全長176m、後円部直径96m、後円部高さ15mで、九州では最大の前方後円墳。宮内庁は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の陵墓参考地に治定しています。近…
西都市街地の西方、南北にのびる標高60mの洪積層の台地上の東西2.6km、南北4.2kmに分布する319基の古墳が西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)。前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基からなっている日本最大級の広…
西都市の観光ボランティアガイド案内所として開設された施設。建物は、前方後円墳を縦に割ったというユニークなフォルムです。館内には西都原の四季折々を写真とともに紹介するコーナーや、パネルや映像による観光案内を用意。パソコンを…
宮崎県庁舎本館は昭和7年に完成し、鉄筋コンクリート造りの3階地下1階。建設費用は72万円(現在の貨幣価値で50億円以上)で、ゴシック風の古典的なデザインを取り入れた西洋式近代建築のネオゴシックと呼ばれる建物です。県庁舎本…
佐土原城・二の丸跡に建つのが佐土原城跡歴史資料館「鶴松館」で、館名の「鶴松」は佐土原城の別称。二の丸御殿を復元した館内は、寛永年間の城址をもとに推定復元されたもので、書院、数奇屋(土人形の館)、大広間の3棟からなり、書院…
1603(慶長8)年、高橋元種により、近代的な銃や大砲からの攻撃に耐えるよう五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた丘に建てられたのが盛岡城で、現在、延岡城跡が城山公園として整備されています。建物は明治4年の破城令により、ほとんどの建…
昭和53年、飫肥(おび)城の大手門の再現とともに設置されたのが飫肥城歴史資料館。飫肥城は、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められて賜った城。明治4年の廃藩置県まで…
難攻不落の名城として全国にその名を轟かせた日南市の飫肥城(おびじょう)。すべての城郭建築は残念ながら明治6年に取り壊されてしまっていますが、石垣だけは当時のまま現存し、銃弾跡が残されています。その石垣に合わせて昭和53年…
飫肥院の跡とも伝わる飫肥城(おびじょう)はいつ頃の築城は定かではないが、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められ秀吉から賜り、以降280年あまり飫肥藩伊東氏5万10…
西都市街地の西、松本原と呼ばれている台地の南側の田んぼのなかにある古墳が松本塚古墳。前方後円墳の松本塚古墳を中心にして数基の古墳(県指定三納古墳群)が点在し、松本古墳群と呼ばれています。松本塚古墳は、墳長104mで、周堀…
大阪府羽曳野市にある墳丘長190mという巨大な前方後円墳が軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)。古市古墳群のひとつに数えられています。被葬者は明らかでありませんが、宮内庁は「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」として第12代…
聖武天皇は、741(天平13)年、仏教によって国家の理想を実現するという鎮護国家の方針から、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立しています。宮崎県立妻高等学校敷地一帯が日向国分尼寺跡です。校…
西都市を流れる一ツ瀬川が形成した河岸段丘上に位置する7世紀末〜10世紀前半の官衙遺跡(かんがいせき)。日向国分寺跡、国分尼寺跡や特別史跡「西都原古墳群」の点在する一角に、古代の日向国(ひゅうがのくに)の国府、国庁があった…
741(天平13)年、聖武天皇の詔によって全国に造られた国分寺(国分僧寺)のひとつ日向国(ひゅうがこく)の国分寺の跡。正式名は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)で、広さは4haにも及び、往時には…