千葉県市川市国府台、下総台地の西端、江戸川に面した台地上に広がる公園が、里見公園。里見公園と呼ばれるのは、中世に里見氏と北条氏の激戦の国府台城跡(こうのだいじょうせき)だから。曲亭馬琴の長編小説『南総里見八犬伝』のクライマックスは、この国府台です。
足利義明と北条氏綱との激戦の地にもなっています
中世に太日川(ふといがわ/現在の江戸川、利根川東遷で変化)と坂川の合流地点近く、河岸段丘の上に築かれたのが、国府台城。
国府台という地名は、下総国(しもうさのくに)の国府(現在の県庁にあたる行政機関)があったことに由来します。
文明11年(1479年)、太田道灌(おおたどうかん)の弟・太田資忠(おおたすけただ)が、千葉家当主の千葉自胤(ちばよりたね)を支援、臼井城(うすいじょう/現・千葉県佐倉市)にいた千葉孝胤(ちばのりたね=千葉氏当主を自称)を攻めた際、攻略の拠点として国府台に城を築いたのが始まり(その前年には太田道灌が国府台に陣を構えています)。
里見公園をじっくり見学すると、江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれていたのが確認でき、天然の要害だったことがわかります。
時を経た天文7年(1538年)、足利義明(あしかがよしあき)は里見義堯(さとみよしたか)を率いて国府台に陣をとり、北条氏綱軍(北条氏綱は関東の西半分を領有する勢力を誇っていました)と激突。
この合戦で足利義明は戦死し北条軍が勝利しています(第一次国府台合戦)。
このとき、武勇に優れる足利義明は優勢なこともありましたが、里見義堯が積極的に参戦せず、敗北し、弟の足利基頼(あしかがもとより)、嫡男・足利義純(あしかがよしずみ)が討ち死にしています。
永禄7年(1564年)、里見義堯の子、里見義弘(さとみよしひろ)は再度、北条軍と対戦するも奪回は成らず、土地は北条氏の支配するところとなりました。
江戸に入府した徳川家康によって廃城になっていますが、あまりに江戸を一望にする立地の良さから廃城になったともいわれています。
国府台城跡周辺8.2haを里見公園として整備
昭和34年に古戦場、国府台城跡一帯を公園として整備して誕生したのが里見公園。
8.2haの園内にはバラ園(約100種、800株が噴水広場に植栽)、国府台城跡、里見群亡の碑(さとみぐんぼうのひ)、明戸古墳石棺(前方後円墳から出土した石棺)、夜泣き石(公園に隣接する総寧寺から移設)、羅漢の井(里見一族が布陣の際の飲用水として使用)などがあります。
また「紫烟草舎」(しえんそうじゃ)は、北原白秋が大正5年から1年ほどを暮らした小岩の離れを復元したもの。
公園内には、260本の桜(ソメイヨシノ)が植栽され、春にはお花見の名所に。
開花期には恒例の『里見公園桜まつり』が開催され、園内の桜をライトアップ、ボランティアガイド「市川案内人の会」による里見公園見どころツアー、紫烟草舎の公開などが行なわれます。
国府台という地名は下総国(しもうさのくに)の国府が置かれたことに由来。
一帯には数十の古墳が築かれていたと推測されています。
里見公園の東には下総国分寺跡もあるので、歴史好きならぜひ寄り道を。
『南総里見八犬伝』の大ヒットで広重も浮世絵に描く!
国府台城跡一帯は、江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京東部の市街、富士山などを眺める絶景の地。
歌川広重は『名所江戸百景』のなかに「鴻の台とね川風景」を入れています。
「鴻の台」とは、まさしく国府台(こうのだい)のこと。
広重が絵を描く4年ほど前に歌舞伎『南総里見八犬伝』が初舞台となり、それが大ヒット。
江戸の町にも、ゆかりの地めぐり(「聖地巡礼の地」)が流行、成田山詣での途中に寄るなど、人気の名所となりつつあったのです。
そこに目をつけたのが歌川広重で、富士の手前に江戸の町という、徳川家康が「眺めが良すぎるから廃城に」と考えた絶景が広がっていました。
「とね川」(利根川)は江戸川の旧称で、里見公園あたりからの眺めと推測されています。
『南総里見八犬伝』クライマックスの舞台! 里見公園(国府台城跡) | |
名称 | 里見公園(国府台城跡)/さとみこうえん(こうのだいじょうせき) |
所在地 | 千葉県市川市国府台3-9 |
関連HP | 市川市公式ホームページ |
電車・バスで | JR市川駅、または、京成国府台駅から松戸駅行き・松戸営業所行きバスで、国立病院下車、徒歩5分 |
ドライブで | 京葉道路市川ICから約7km |
駐車場 | 江戸川沿いの駐車場(無料)を利用、年末年始は利用不可 |
問い合わせ | 里見公園管理事務所 TEL:047-372-0062 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |