千葉県富津市富津、富津岬の沖合の浅瀬に築かれているのが第一海堡。東京湾要塞の一部として、富津岬側から第一海堡、第二海堡、第三海堡と3ヶ所築かれた海上砲台のひとつで、明治14年8月起工、明治23年12月完成と、最初に築かれたのが第一海堡です。
東京湾の要塞化は、この第一海堡から
工兵大尉・西田明則(にしだあきのり)が、「東京湾要塞建設論」を山縣有朋(やまがたありとも)宛に提出したのは明治11年7月30日のこと。
この「東京湾要塞建設論」のなかに富津岬~横須賀の海中に3個の海堡(海上砲台)を築造することを提案していますが、当時、東京湾防衛の対象となったのは清国(中国)艦隊の北洋水師(北洋艦隊)。
清国との海戦で敗れることがあれば、東京湾に北洋水師(北洋艦隊)が押し寄せ・・・・、と明治政府は危惧し、明治14年8月に第一海堡が起工したのです。
第一海堡は、⽔深は最大で4m60cm、最浅1m20cmと比較的に浅瀬で、まず海中に捨石(すていし)を入れ、野⾯⽯で囲った堤防を築き(まだコンクリートのない時代です)、内部に砂を充填して砲台を建設しています。
投入された石材は7万立方メートル、砂は13万立方メートルにも及び、おもに人海戦術だったので、延べ32万⼈の⼈夫が使役されています。
この人工島を築くだけで、38万円(現在の価格で35億円)が使われています。
設置されたのは、28cm榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう/二十八糎榴弾砲)14⾨、19cmカノン砲1⾨、12cm速射カノン砲4⾨、7.5cm速射カノン砲4⾨、機関砲4⾨、探照灯1基で、主砲となる28cm榴弾砲は、大日本帝国陸軍が開発、日露戦争の旅順攻囲戦では攻城砲として投入され活躍しています。
その後、大正時代にかけて東京湾の中心に第二、横須賀軍港側に第三と3つの海堡を築いていますが、第二海堡、第三海堡は関東大震災で被災し、廃止、除籍されていますが(すでに大砲の進化で必要性が薄れていました)、浅瀬にあった第一海堡は被害が少なく、第二次世界大戦まで海堡として運用されています。
第一海堡に関しては、現在は財務省が管理し、立ち入りが禁じられています。
第二海堡は国土交通省管理で試験的に上陸ツアーが実施され、第三海堡は東京湾の海上交通の支障となるため破壊、撤去。
第一海堡 | |
名称 | 第一海堡/だいいちかいほ |
所在地 | 千葉県富津市富津 |
関連HP | 東京湾口航路事務所ホームページ |
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