豊臣政権を支えた徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家という5人の大大名(だいだいみょう=10万石以上の大名)が五大老。実務は浅野長政、石田三成などの五奉行が行なったので、五大老は秀頼が成人して政務を司るまで、互いに牽制しながら補佐させる目的で、豊臣秀吉が生み出したもの。
徳川家康
領地:関八州(武蔵・伊豆・相模・下総・上総・上野・下野)など256万石
居城:江戸城
生誕:天文11年12月26日(1543年1月31日)
生誕地:三河国・岡崎城(愛知県岡崎市)
死没:元和2年4月17日(1616年6月1日)
没地:駿府城
墓所:久能山東照宮・神廟、日光東照宮・奥社
関ヶ原合戦では:東軍、戦後、征夷大将軍となって徳川幕府を開く
前田利家
領地:北陸(加賀・越中)など83万石
居城:金沢城
生誕:天文7年12月25日(1539年1月15日)/諸説あります
生誕地:尾張国・荒子城もしくは、尾張国・前田城(愛知県名古屋市)
死没:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
没地:大坂の前田利家邸(現・玉造稲荷神社)
墓所:野田山・加賀藩主前田家墓所(金沢市野田町)、宝円寺
関ヶ原合戦では:合戦前年に死没。家康は加賀征伐を検討し、嫡男・前田利長(父を継いで五大老に就任)は母・芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回。
関ヶ原合戦では東軍
毛利輝元
領地:中国路(安芸・周防・出雲・石見・備後・隠岐)など120万石
居城:広島城
生誕:天文22年1月22日(1553年2月4日)
生誕地:安芸国・郡山城(広島県安芸高田市)
死没:寛永2年4月27日(1625年6月2日)
没地:隠居所である萩・四本松邸=現・萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)
墓所:萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)
関ヶ原合戦では:西軍総大将
配下の吉川広家、小早川秀秋は家康に内通し、戦後の毛利氏の本領安堵などを交渉、結果、毛利勢は大坂市中で待機し参戦せず、所領安堵を条件に大坂城から退去
家康は、所領安堵の約束を反故にし、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8000石に厳封
毛利輝元は隠居し、毛利秀就(もうりひでなり)が周防・長門2ヶ国を所領し、萩藩(長州藩)を立藩
上杉景勝
領地:会津および北陸・佐渡など120万石
居城:会津鶴ヶ城
生誕:弘治元年11月27日(1556年1月8日)
生誕地:坂戸城下(新潟県南魚沼市)
死没:元和9年3月20日(1623年4月19日)
没地:米沢城
墓所:上杉家廟所
関ヶ原合戦では:家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立し、関ヶ原合戦の契機となる家康の会津征伐へと発展
東軍に与した伊達政宗や最上義光らと合戦(慶長出羽合戦)も、西軍敗北の報を受け家康に降伏、米沢’に転封、実高51万石に減少
宇喜多秀家
領地:山陽(備前・美作・備中半国・播磨赤穂郡)57万石
居城:岡山城
生誕:元亀3年(1572年)/月日不明
生誕地:備前国・岡山城
死没:明暦元年11月20日(1655年12月17日)
没地:八丈島(流刑先)
墓所:八丈島
関ヶ原合戦では:西軍の副将、ただし西軍総大将・毛利輝元が大坂城に留まったことから、実質的な前線の総大将に
家康断罪の檄文を発し、総大将として伏見城を攻略、さらに関ヶ原でも西軍最大の1万7000人の軍勢を率いて参戦
敗戦後、伊吹山中、京・太秦などに潜伏後、島津義弘を頼って薩摩へ、その後、駿府城の家康のもとへ身柄を引き渡され、前田利家の嘆願で死罪を免れ(宇喜多秀家の正室・豪姫は前田利家・まつの四女)、2人の息子とともに八丈島に流刑
五大老とは!? | |
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