胆沢城

胆沢城

陸奥国胆沢郡胆沢(現・岩手県奥州市)に9世紀初頭に築かれた古代城柵、胆沢城。平安時代に編纂された歴史書『日本紀略』には、802(延暦21)年1月9日に坂上田村麻呂が派遣されて築城されたと記されています。789(延暦8)年に蝦夷の軍事指導者・アテルイと胆沢に侵攻した朝廷軍との戦闘が勃発したことが築城の背景にありました。

平安時代初頭の北東北平定の基地として機能した城柵

胆沢城
胆沢城の政庁跡

『日本紀略』には、延暦21(802)年4月15日に坂上田村麻呂からアテルイ(阿弖利爲)とモレ(母礼)が降伏したという報告が届いたと記録されています。
まだ築城を行なっていた時期に当たるので、城を築きながら周辺の蝦夷の討伐を行なっていたことがわかります。
アテルイとモレは、坂上田村麻呂の指示で7月10日に平安京に入りますが、坂上田村麻呂の助命提案にもかかわらず、8月13日に河内国で処刑されています(処刑された場所は不詳)。

803(延暦22)年にはさらに北側に志波城(しわじょう=現・岩手県盛岡市中太田・下太田)を築いていますから、平安時代に朝廷は、東北の軍事力を増強しながら、支配権を北へと伸ばしていたことがよくわかります。

鎮守府も多賀城(陸奥国国府=宮城県多賀城市)から胆沢城に移転し、東北経営の中心的な存在となりました。

815(弘仁6)年からは交代制で常時700の兵力を有する軍事拠点となっています。

胆沢川と北上川の合流地点にほど近い標高50mほどの台地に幅2.4m、高さ3.9m、延長2.7kmという築地塀(ついじべい)を巡らせたという簡易な造りです。

東京ドーム9個分という広大な敷地で、発掘調査の結果、外郭南面中央に南門(楼門)、外郭北面中央に北門が配され、中央部に領民からの献上品を受け取る儀式などを執り行なう政庁が置かれていたことが判明しています。
政庁の周囲には官衙(かんが=古代の役所)や厨屋(くりや=台所)などが配されていました。
奥州市埋蔵文化財調査センターにはその模型が展示されているので、ぜひお立ち寄りを。

なお、坂上田村麻呂ゆかりの清水寺(京都)には、平安建都1200年を期して平成6年に「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」(アテルイとモレの慰霊碑)が建立されています。

胆沢城
名称胆沢城/いさわじょう
Isawa Castle
所在地岩手県奥州市水沢区佐倉河
関連HP奥州市埋蔵文化財調査センター公式ホームページ
電車・バスでJR水沢駅からタクシーで20分
ドライブで東北自動車道水沢ICから約3.3km
駐車場10台/無料
問い合わせ奥州市埋蔵文化財調査センター TEL:0197-22-4400/FAX:0197-22-4600
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