平安時代初期の弘仁3年(812年)頃、大蔵卿・陸奥出羽按察使の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が蝦夷(えみし)征討の責任者となって現在の岩手県矢巾町(やはばちょう)に築いた古代の城柵が徳丹城(とくたんじょう)。紫波城(現・盛岡市)が水害で機能を失ったため、東北経営の拠点が徳丹城へと移されたもの。
蝦夷征討と東北経営を目的に築かれた最後の城柵
築城の前年、弘仁2年(811年)4月17日に征夷将軍に任命され、陸奥国・出羽国の兵士を動員し、12月までに蝦夷を全滅させています。
平安時代の初期には蝦夷討伐は国家的なプロジェクトで、制圧した地域を支配するための役所である城柵(じょうさく)を北進しながら築いていったのです。
その後、徳丹城の軍事的役割は徐々に低下し、9世紀中頃(830~840年頃)にはその使命を終えたと推測されています。
発掘調査の結果、徳丹城の跡は一辺の長さが350mの方形であることが確認されています。
外郭は太さ30~40cmの丸太によって堅牢に守られ、70mおきに櫓(やぐら)を設置するという実戦的な構えです。
正面にあたる南門は現在の徳田神社の境内に位置していました。
城跡を国道4号が縦断していますが、史跡公園として整備され、政庁跡などの位置がわかるようになっています。
隣接する矢巾町歴史民俗資料館には、徳丹城から出土した土器や木製品などが展示されています。
徳丹城 | |
名称 | 徳丹城/とくたんじょう |
所在地 | 岩手県紫波郡矢巾町西徳田第6地割 |
関連HP | 岩手県矢巾町公式ホームページ |
電車・バスで | JR矢幅駅から徒歩30分 |
ドライブで | 東北自動車道盛岡南ICから約23km |
駐車場 | 矢巾町歴史民俗資料館駐車場などを利用 |
問い合わせ | 矢巾町社会教育課 TEL:019-611-2860 |
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