奈良県大和高田市築山にある墳丘長210mの巨大な前方後円墳が、築山古墳(つきやまこふん)。馬見古墳群(うまみこふんぐん)を構成する古墳のひとつで、南群の盟主。実際の被葬者は明らかでありませんが、宮内庁は、磐園(いわぞの)として顕宗天皇(けんぞうてんのう)の陵墓参考地に治定しています。
顕宗天皇の陵墓参考地ですが、実際の被葬者は謎
磐園陵墓参考地として宮内庁が管理し、周囲を水を貯めた周濠が巡っているため、立ち入ることができず、「磐園陵墓参考地拝所」から遥拝するなど、周濠越しの見学に。
江戸時代には武烈天皇や皇極・孝徳天皇の父の茅渟王、近代では顕宗天皇の候補地として御陵墓伝説地となっていますが、特定されることがなく、現在は「磐園陵墓参考地」(顕宗天皇の陵墓の候補)となっています。
そのため学術調査なども行なわれておらず、段丘が2段なのか3段なのか、そして埋葬施設も明らかでありません。
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)も築山古墳に興味を示し、度々訪れていますが、被葬者に関しては結論を導き出していません。
水濠を加えると261mと、大和高田市内の古墳では最大規模で、全国28位、奈良県内9位という巨大古墳。
宮内庁書陵部の発掘調査で採集された円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺形埴輪の破片などから、4世紀後半の築造と推測され、周囲に茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)、コンピラ山古墳、カン山古墳という大型円墳3基の陪塚(ばいづか)を従えています。
ちなみに、宮内庁が陵墓参考地に治定する顕宗天皇の実在性に関しては、歴史学的には疑う人も多く、実在したかは明らかでありませんが、実在を西暦に換算すると、5世紀末頃ということになり、埴輪の破片からの年代推定とは不一致にということに。
馬見丘陵の東南部には4世紀から5世紀にかけて築かれた馬見古墳群があり、その盟主たる巨大な墓は、ヤマト王権に関連する大王、あるいは豪族の墓だろうと推測されています。
また有力な大臣・武内宿祢(たけしうちのすくね)を始祖とする葛城氏の支配する土地で、5世紀には履中天皇から武烈天皇まで9人の大王のうち、6人の生母が葛城氏の女性であったことからも、その重要な地位がよくわかります(葛城氏系の大王は武烈天皇で途絶)。
葛城氏の栄光と没落の歴史を背景に、築山古墳に埋葬された被葬者は、今も明らかになっていません。
馬見古墳群には、中央群に巣山古墳、新木山古墳、ナガレ山古墳、佐味田宝塚古墳、南群に築山古墳、新山古墳、狐井城山古墳、コンピラ山古墳、狐井塚古墳、そして北群に川合大塚山古墳、島の山古墳などがあります。
築山古墳 | |
名称 | 築山古墳/つきやまこふん |
所在地 | 奈良県大和高田市築山城山 |
電車・バスで | 近鉄築山駅から徒歩5分 |
ドライブで | 西名阪自動車道郡山ICから約15km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 大和高田市生涯学習課 TEL:0745-53-6264 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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