津和野城は、津和野を眼下にする標高347.5mの霊亀山山上にあった典型的な山城の跡で国の史跡。吉見頼行が、鎌倉時代の永仁3年(1295年)から30年を費やして築城したのが始まり。現存する石垣などは関ヶ原合戦以降のもの。山城ながら津和野藩時代も存続し、11代にわたり亀井氏の居城となりました。日本100名城に選定。
中世には霊亀山の全山が城塞だった
吉見頼行(能登吉見氏の庶家)が津和野の山に城を築いたのはなんと日本海の防備のため。
文永・弘安の役(蒙古軍襲来)の軍功で、鎌倉幕府は吉見頼行を能登国から西石見(石見国吉賀郡)の地頭に任命。
以降中世には吉見氏11代の居城となり、益田氏とともに石見の二大国人として名を馳せています。
天文23年(1554年)、11代・吉見正頼の時、大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)の攻撃を受けましたが、100日に渡る籠城戦を耐え、津和野城の難攻不落を世に示しています。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の功績で入城した坂崎直盛(さかざきなおもり) が大改築を行ない、本丸の北200mの山頂に側面防衛のために織部丸(おりべまる)を築いています。
現存する遺構の大部分は坂崎直盛改築時のもの。
城の内堀は津和野川をあてています。
藩政時代には亀井氏11代の居城となっていますが、藩庁は急峻な山城を避け山麓(藩主屋敷は現在の島根県立津和野高等学校)に置かれています。
亀井氏時代の寛文年間(1661年~1673年)に、現在の津和野大橋から横堀まで1kmにわたる外堀が掘られています。
山上には各郭の石垣が現存
山上の太鼓丸や人質郭には往時の石垣が残され、山麓には、馬場先櫓、物見櫓が現存。
城の最高所は三十間台で、津和野市街を眼下に望むことができます。
三十間台の西側に三重天守が建っていた天守台があり、石英閃緑岩の石垣が現存しています。
三十間台の南が人質櫓のある人質郭で、一段下がって三の丸となります。
三十間台の北には二の丸、太鼓丸が配されていました。
山麓から40分ほど登れば主郭部分に到達しますが、津和野伝統文化館近くから「津和野町城跡観光リフト」を利用すれば山上の一角に到達することも可能。
それでも本丸までは山道を15分ほど歩くことに。
「助ければ千姫を与える」という家康の言葉を信じたからなのですが(諸説あります)、千姫は江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま見初めた本多忠刻(ほんだただとき)と恋仲となります。
それを知った坂崎直盛は千姫の輿(こし)を奪取することを図りますが、幕府の知るところとなりついにはお家断絶となっています。
坂崎直盛に自刃するように説き伏せたのは柳生宗矩(やぎゅうむねのり)だったともいわれています。
側溝を多く築いたことによる蚊の大量発生に備えて、鯉の養殖を創始した聡明な藩主で、和紙の原料である楮(こうぞ)の植林にも務めています。
ただし、強情で執念深かったともいわれ、その人物像はあまり良く伝わっていません。
城下の永明寺(津和野駅から徒歩5分)に坂崎直盛の墓があります。
津和野城 | |
名称 | 津和野城/つわのじょう |
所在地 | 島根県鹿足郡津和野町鷲原 |
関連HP | 津和野観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR津和野駅から石見交通バス野中行きで6分、津和野高前下車、徒歩4分 |
ドライブで | 中国自動車道六日市ICから約35km |
駐車場 | 津和野町城跡観光リフト(30台/無料) |
問い合わせ | 津和野町観光協会 TEL:0856-72-1771 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag