清洲橋とともに隅田川を代表する美橋として有名な永代橋は、関東大震災後の帝都復興事業として、大正15年に竣工。全長185mのタイド・アーチ橋で、ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke)をモデルに、隅田川の入口に「帝都の門」にふさわしい男性的なデザインとして存在感を誇ってきました。
21:00までのライトアップが美しい!
竣工当時は佃橋方面まで見渡せる眺望が評判でしたが、現在は佃島の高層ビル群がバックにそびえ、夜ともなると夜景が「摩天楼のよう」と話題になっています。
日没から21:00まではライトアップされ、水面に映るブルーの光は思わず見とれてしまう光景。
また新たな鋼材を使うことで、100.6mという最大スパンを実現した鋼アーチ橋として、平成12年に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺産」に選定、平成19年に勝鬨橋(かちどきばし)、清洲橋とともに国の重要文化財に指定されています。
永代橋はもともと、5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝し、1698(元禄11)に深川・永代島方面へと渡る「深川の渡し」に架けられたのが、初代。
関東郡代・伊奈忠順(いなただのぶ/赤山城=埼玉県川口市赤山が本拠)が工事を担当し、1698(元禄11)、上野寛永寺・根本中堂造営(現・上野公園内大噴水の地に造営)の余材を使っています。
徳川の世が末永く続くようにと、永代橋と名付けられたともいわれますが、実際には「永代寺・富岡八幡宮(深川)の鎮座する永代島に渡る橋」という方が説得力があります。
この永代橋の架橋が、永代寺の繁栄につながり、千葉街道沿いの永代寺は「江戸に近く地の利がいい」ということで、成田山新勝寺の不動明王像の「出開帳」(出張開帳)が11回も行なわれるようになります(永代寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、成田山東京別院として新たに深川不動堂が創建されています)。
1702(元禄15)年12月、赤穂浪士の吉良上野介屋敷(現・墨田区両国3丁目本所松坂町公園周辺)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという逸話が残されています。
現在の永代橋は、関東大震災後、帝都復興のシンボルとして架橋
1807(文化4)年には、深川・永代島にある富岡八幡宮の祭礼(山王権現=日枝神社、神田明神と並ぶ「江戸三大祭」)にたくさんの人が詰めかけた重みで橋が落ち、1500人余りが死亡するという空前絶後の落橋事件が起こっています。
久しぶりの祭礼に将軍家が船で繰り出したため、橋を通行止めに。解除されるや大群衆が一斉に渡ったため崩壊してしまったのです。
「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」は、蜀山人(本名は大田直次郎、号は南畝)の狂歌。
1897(明治30)年には、道路橋としては日本初の鉄橋(鋼鉄製のトラス橋)となったのも、この永代橋。そのことからも、都心と江東(隅田川の東)方面を結ぶいかに重要な場所に架かっているのか、当時は深川方面がいかに重要な場所だったのかがよくわかります。
明治架橋の鉄橋は、橋底には木材を使用していたため関東大震災で焼失。多くの犠牲者も生じました。
その反省もあり、帝都の復興で、隅田川、そして江東地区には頑強な鉄橋が架けられたのです。
「震災復興事業の華」と謳われた女性的な清洲橋、「帝都東京の門」という位置づけで重厚な永代橋は、まさに復興のシンボルだったわけです。
橋の上を通るのが大手門と清砂大橋を結ぶ永代通りで、明治37年〜昭和47年には東京市街鉄道(都電)も走っていました。現在は地下に東京メトロ東西線が通っています。
江戸切絵図に見る永代橋
永代橋 | |
名称 | 永代橋/えいたいばし |
所在地 | 東京都中央区新川〜江東区佐賀 |
電車・バスで | 東京メトロ東西線・都営地下鉄大江戸線門前仲町駅から徒歩12分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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