高知県いの町の瓶ヶ森(かめがもり/標高1896.5m)・白猪谷を源流に、四国山地を横断し、徳島県徳島市で紀伊水道に注ぐ長大な河川が吉野川。幹川流路延長は194kmで、日本第12位、流域面積3750平方キロは日本第17位の河川です。「坂東太郎」(利根川)・「筑紫次郎」(筑後川)と並び「四国三郎」とも呼ばれる暴れ川です。
源流は高知県の石鎚山脈・瓶ヶ森
石鎚国定公園に指定される石鎚山脈の瓶ヶ森(石鎚山、笹ヶ峰とともに「伊予の三名山」)が水源。
瓶ヶ森林道(村道瓶ヶ森線/別名「UFOライン」)の15.8km地点(標高1600m)に吉野川源流の碑が立っています。
実際の源流部はもう少し標高が低い場所で、白猪谷(しらいだに)の標高1200m地点に吉野川源流のモニュメントが立っていますが、源流橋から2時間ほどの沢登りが必要です。
この源流モニュメントが真の源流かといえば、その上流部にも一部伏流水となりながら水流があり、「源流の滝」と呼ばれる滝も落ちています(吉野川源流モニュメントから上流はさらに道が険しいので熟達者向けです/増水時、増水後などには入山できません)。
白猪谷渓谷の入口付近には白猪谷オートキャンプ場もありますが、トイレと炊事場だけの簡易的なキャンプ場です。
白猪谷の標高750m~900mには白猪谷風景林があり、渓流沿いに遊歩道が整備され、白猪谷源流歩きを楽しむことができます。
暴れ川の景勝地、大歩危・小歩危
天正13年(1585年)、豊臣秀吉(天正13年時点では羽柴秀吉)の四国征伐で、四国を平定していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が倒されますが、功のあった蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)に阿波国を与え、以降、江戸時代にも蜂須賀家が徳島藩主(阿波藩主)に君臨します。
この蜂須賀家が頭を悩ましたのが、暴れ川である吉野川の治水、そして利水。
吉野川上流域は年間雨量3000mmに達する日本有数の多雨地帯で、徳島平野が晴れていても上流の高知県側は雨ということも多いのです。
吉野川は、河川勾配が急なため、降った雨は短時間で流出し、下流で越水、氾濫を生じる危険性があるのです。
渇水時と増水時の水量の差は、「暴れ川」として有名な「坂東太郎」利根川の4倍近くあり、治水の難しさでは日本一といわれています。
しかも6月〜9月に年間の降雨量の半分を占め、江戸時代ではほぼ2年に1回の水害が記録されているのです。
稲の収穫期に水害が多いことから、下流部では稲作が敬遠され、それに代わって藍を栽培。
藩政時代には徳島藩の財政を藍が支えていました(明治以降に、藍染の不振から板名用水、麻名用水が開削され、米作への転作が図られています)。
吉野川が起こす洪水は、徳島藩内での大雨による洪水を「御国水」(おくにみず)、高知の山(土佐藩内)で降った大雨が濁流となって流れるのを「土佐水」、あるいは「 阿呆水」(あほうみず)と呼び分けていました。
幕末の嘉永2年(1849年)に発生した「土佐水」(「酉の阿呆水」と通称)では、吉野川沿岸の祖母ヶ島、小塚、佐野塚、東西黒田、芝原などの北井上地区の村々の堤防33ヶ所を破壊、死者250名にも及ぶ甚大な被害を生んでいます。
こうした水害防止を目的に吉野川総合開発が計画され、昭和50年に完成したダムが、早明浦ダム(さめうら湖=ダム湖百選)です。
吉野川がV字谷となって四国山脈を刻んで北上する部分が、有名な大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)の景勝(徳島県三好市〜高知県大豊町)で、JR四国土讃線、国道32号の車窓から見学できるほか、大歩危峡観光遊覧船も運航されています。
大雨が降る水没してしまう潜水橋(せんすいきょう/沈下橋)は、同じ四国の四万十川(しまんとがわ)が有名ですが、吉野川にも徳島県道199号脇三谷線の脇町潜水橋(徳島県美馬市)、川島潜水橋(徳島県吉野川市)など8ヶ所に架かっています(6橋が日本最大の川中島である善入寺島と堤内地を結んでいます)。
また、吉野川には昭和2年架橋の三好橋(アーチ橋)、吉野川橋(日本百名橋/ワーレントラス橋)、阿波しらさぎ大橋(土木学会田中賞受賞)など、多種多様な橋梁形式が存在し、「橋の博物館」と呼ばれています。
瓶ヶ森・吉野川源流の碑|高知県いの町
早明浦ダム(さめうら湖)|高知県土佐町・本山町
大歩危|徳島県三好市
脇町潜水橋|徳島県美馬市
吉野川河口|徳島県徳島市
吉野川 | |
名称 | 吉野川/よしのがわ |
所在地 | 高知県いの町の瓶ヶ森〜徳島県徳島市 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag