大正8年、武田信玄を祭神として創建された神社で甲斐の国の総鎮守。場所は武田信虎、信玄、勝頼の武田氏3代、63年間の居城だった、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡。1575(天正3)年に長篠の合戦で大敗した勝頼が、館を捨て、新府城に移るまで武田氏の政治的な中心だった場所で、武田氏館として「日本100名城」にも選定。
信玄の父・武田信虎が築いた館跡
戦国時代の1519(永正16)年、甲斐守護・武田信虎(信玄の父)が居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)を築き、家臣団が集住して武田城下町が形成されたのが、甲府市発展の始まり。
武田信虎以前の武田信昌・信縄時代には武田氏館は石和(甲府市川田町・笛吹市石和町)にあったのです。
躑躅ヶ崎館を築いた信虎は、詰城として躑躅ヶ崎館背後の丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)を築城して、有事の備えとしています。
武田信玄が生まれたのもこの要害山城です。
躑躅ヶ崎館(武田氏館)は、天目山での武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命で甲府城が築かれて廃城となっています。
周囲を濠と土塁で囲んだ中世の館跡
『例祭』は、信玄の命日にあたる4月12日の9:00〜斎行され、武田24将の騎馬武者も出陣しています。
「人は城、人は石垣、人は堀」と『武田節』(昭和36年創作の民謡調歌曲)に歌われたように信玄は、領地に中世的な城すら持つことがなく、躑躅ヶ崎館を政治的・軍事的な拠点としていました。
甲府駅方面から武田神社にやってくるとまず神橋で濠(堀)を渡りますが、これが躑躅ヶ崎館時代の堀割。
神橋から拝殿へと真っ直ぐに参道が延びていますが、武田氏館時代には現在の「宝物殿」の東側に大手門が配されていました。
周囲には、高さ3.6mの土塁、その外側には濠(堀)が築かれています。
大手門を入った「宝物殿」あたりの東曲輪(ひがしくるわ)と本殿のある中曲輪(なかくるわ)は信玄時代からの曲輪。
西曲輪と北曲輪(味噌曲輪と御隠居曲輪)は信玄の子・武田勝頼時代に増設した曲輪です。
境内に残る「姫の井戸」は、躑躅ヶ崎館の生活用水のひとつで、信玄の娘が誕生の際、産湯として使われたことがその名の由来となっています。
また「茶の湯の井戸」とも呼ばれ、戦国時代には茶の湯のたしなみが武人として重要視されましたが、信玄は京から茶人を招いた際にこの水で茶を点てたと伝わっています。
井戸の底から、茶釜が発掘されたことでもそれが裏付けられているのです。
「姫の井戸」の水は延命長寿、万病退散のご利益があるとされ、自由に「お水取り」することが可能。
神符授与所で特製のペットボトルを授与してくれます。
宝物館、甲陽武能殿などもあわせて見学を
本殿横の「宝物殿」には、国の重要文化財で三條家より寄進された「吉岡一文字の太刀」や、信玄が陣中で使ったという軍扇(戦国時代)、江戸中期に描かれた『武田二十四将図』(江戸中期)などを展示。
「宝物殿」に展示される武田家の家宝の楯無鎧・小桜韋威鎧(複製)は印傳のルーツのひとつです。
また社殿の背後には、「お屋形様の散歩道」、御隠居曲輪南スポット公園などもあり散策に絶好。
「御隠居曲輪」(ごいんきょくるわ)は、信玄の母・大井夫人が住んだと伝えられる曲輪です。
武田神社(躑躅ヶ崎館跡) | |
名称 | 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)/たけだじんじゃ(つつじがさきやかたあと) |
所在地 | 山梨県甲府市古府中町2611 |
関連HP | 武田神社公式ホームページ |
電車・バスで | JR甲府駅から山梨交通バス武田神社行きで8分、終点下車 |
ドライブで | 中央自動車道甲府昭和ICから約8km |
駐車場 | 154台/無料(9:00〜16:00)、小学校隣接地のため運転に注意 |
問い合わせ | 武田神社 TEL:055-252-2609/FAX:055-252-2600 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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