長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(2446m)を源流に、木曽谷を南下し、濃尾平野を流れて伊勢湾に注ぐ長大な河川が木曽川(きそがわ)。幹川流路延長は229kmで、日本第7位、流域面積9100平方キロは日本第5位の河川です。下流では長良川、揖斐川とともに木曽三川と呼ばれ、ヨハニス・デ・レーケの木曽三川分流工事で有名です。
木曽川の上流部は木曽谷で、中山道の景勝地
長野県木祖村、朝日村、松本市の境にそびえる鉢盛山(標高2446.6m)を源とし、南へ流れるワサビ沢(木祖村)の源頭部が木曽川の源流。
鉢盛山登山に利用される林道途中、標高1650mのワサビ沢横断地点に「母なる川ここに生まれる」と記された木曽川源流碑が立っています。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)という中山道(木曽路)の通る木曽谷を南下しますが、その途中には木曽の桟(きそのかけはし)、寝覚の床(ねざめのとこ)などの景勝地があります。
明治末から、福沢桃介が率いる名古屋電灯による電源開発でも知られ、大正8年の賤母発電所(しずもはつでんしょ/岐阜県中津川市)を皮切りに大桑発電所(近代化産業遺産/長野県大桑村)、須原発電所(近代化産業遺産/大桑村)、大井ダム・大井発電所(近代化産業遺産/中津川市・恵那市)が建設され、関西地方の電力を支えてきました。
木曽川が濃尾平野に入る部分(岐阜県美濃加茂市〜愛知県犬山市)が日本ライン。
ドイツを流れるライン峡谷に似ていることから、三河国岡崎康生町(現・愛知県岡崎市)出身で『日本風景論』で知られる志賀重昂(しがしげたか)が大正3年に命名したもの(加茂郡教育会の講師に招かれた際、「木曽川岸、犬山は全くラインの風景其儘なり」と述べています)。
木曽川河口の輪中地帯には国営公園が点在
木曽川の河口部では、揖斐川、長良川とが渾然と流れ、しばしば洪水の被害に見舞われていました。
とくに河口部は輪中(わじゅう)と呼ばれる水郷( 三重県側の長島輪中、愛知県の立田輪中、岐阜県の高須輪中など)。
集落を水害から守るために周囲を囲んだ0メートル地帯で、水害の際の移動手段として各家には舟を備えていました。
河口から45kmの内陸にある岐阜市から伊勢湾までの間には、なんと大小45の輪中が連なっています。
慶長14年(1609年)には、親藩で徳川御三家筆頭の尾張藩を水害から守るため(洪水の被害は伊勢、美濃側へという政策)、木曽川の左岸に御囲堤(堤防)が築かれ、宝暦4年(1754年)に始まった宝暦治水では幕府の命により薩摩藩が木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事(宝暦治水)に従事し、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負(ひらたゆきえ)も自害という宝暦治水事件が発生しています。
治水工事の現場となる岐阜県海津市海津町油島の千本松原近くには薩摩藩家老平田靱負と薩摩藩士84名を祭神とする治水神社が建立され、悲惨な歴史を今に伝えています。
明治時代にも治水事業(木曽三川分流工事)は継続され、オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケの計画で、三重県側の植林、砂防事業なども行なわれています。
木曽三川分流工事の完成で、木曽川と長良川間の高度差を克服するため、川を繋ぐ水路にパナマ運河式閘門の船頭平閘門(せんどうひらこうもん)が築かれています(明治35年完成、国の重要文化財)。
この船頭平閘門があるのが、愛知県愛西市の立田輪中です。
下流部には、大規模な国営木曽三川公園も整備され、河川環境楽園(岐阜県各務原市)、138タワーパーク(愛知県一宮市)、木曽三川公園センター(岐阜県海津市)、船頭平河川公園(愛知県愛西市)などが整備され、観光の拠点になっています。
木曽川源流・鉢盛山|長野県木祖村
大井ダム・恵那峡|岐阜県中津川市・恵那市
船頭平閘門|愛知県愛西市
木曽川河口|三重県桑名市・木曽岬町
木曽川 | |
名称 | 木曽川/きそがわ |
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