戦人塚
愛知県豊明市前後町仙人塚、桶狭間古戦場伝説地の東1kmほどの住宅地にある塚が戦人塚。桶狭間の戦いの戦死者を供養した塚と伝えられ、豊明市側にある桶狭間古戦場伝説地とともに、国の史跡になっています。現在でも桶狭間合戦の際に戦…
愛知県豊明市前後町仙人塚、桶狭間古戦場伝説地の東1kmほどの住宅地にある塚が戦人塚。桶狭間の戦いの戦死者を供養した塚と伝えられ、豊明市側にある桶狭間古戦場伝説地とともに、国の史跡になっています。現在でも桶狭間合戦の際に戦…
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、織田信長が今川義元を討ったとされる桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)が行なわれた桶狭間古戦場は豊明市から名古屋市緑区にかけての一帯ですが、桶狭間の戦いの決戦の地というのは特定…
名古屋市中区、広小路通と堀川が交差する納屋橋のたもとにあるのが堀川ギャラリー。昭和6年築の旧加藤商会ビルは、輸入貿易商の加藤商会の本社だった建物で国の登録有形文化財。現在、地下1階は堀川ギャラリーとして、堀川でのイベント…
慶長15年(1610年)、名古屋城(現・愛知県名古屋市)築城の際に福島正則(ふくしままさのり)によって開削された運河が堀川。名古屋城建築の資材も運ばれたほか、明治以降は名古屋城周辺で作られた陶器を名古屋港に運ぶ舟運にも利…
武田家滅亡の始まりともいえる長篠の戦い。愛知県新城市、新東名高速道路・長篠設楽原パーキングエリア近くの茶臼山(ちゃうすやま)にあるのが長篠設楽原古戦場(ながしのしたらがはらこせんじょう)の織田信長戦地本陣跡。織田信長は長…
愛知県新城市、長篠の戦いの設楽原決戦の地近くにのが新城市設楽原歴史資料館。織田・徳川連合軍が鉄砲3000丁、馬防柵を準備して武田の騎馬隊を退けたとされる「長篠・設楽原の戦い」と幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬…
愛知県新城市、新城市設楽原歴史資料館近くにある塚。信玄塚と名が付いてはいますが、天正3年5月21日(1575年6月29日)の長篠・設楽原の戦い(長篠の戦い)の時にはすでに武田信玄は亡くなっています。信玄原(武田軍主陣地)…
愛知県新城市、長篠城(ながしのじょう)を眼前にする有海原の篠場野に立つ碑が鳥居強右衛門磔死之碑(とりいすねえもんたくしのひ)。長篠の戦いの際、徳川家康(岡崎城)への救援要請という重要な使命を負って豊川を泳ぎ下って長篠城の…
現在の愛知県新城市を舞台にした長篠の合戦の激戦地、長篠設楽原古戦場(ながしのしたらがはらこせんじょう)。武田軍のは精鋭の騎馬隊を誇りましたが、織田・徳川連合軍は、設楽原中央を流れる連吾川の西岸に馬防柵を2kmに渡って築き…
愛知県新城市、長篠設楽原古戦場(ながしのしたらがはらこせんじょう)にある、決戦の際に弾正山( だんじょうやま )に構えた徳川家康本陣跡。武田軍に包囲され籠城した長篠城を救援するため徳川家康は設楽原に出陣し、弾正山に陣を構…
長篠の戦いで有名な愛知県新城市(しんしろし)を流れる豊川を堰き止めて明治45年に築かれたダムが長篠堰堤(ながしのえんてい)。水は、発電機と水車を上下に繋いだ日本初の縦軸式水車発電所の長篠発電所に導水されています。白水ダム…
静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村の境界を流れる天竜川に、電力供給を目的に、昭和31年に完成した巨大なダムが佐久間ダム。高度成長期に、バンク・オブ・アメリカから総額900万ドルの借款を得て、建設費に充当。そ…
愛知県豊田市水源町の矢作川(やはぎがわ)沿いに広がる公園が水源公園。園内には水源神社もありますが、水源とは明治14年に完成した明治用水のことで、その取水口があることが名の由来です。水源神社は、明治用水開削に関わり、「用水…
家康没後3年目の元和5年(1619年)、尾張藩の初代藩主・徳川義直(徳川家康の九男)は日光山輪王寺(神仏混淆時代で境内に東照宮が祀られていた)に準じた様式で、名古屋城三の丸・亀尾天王社(現在の那古野神社)の隣地に天海を開…
愛知県知多郡美浜町にある古社で、少名彦命がこの地に湧く水を飲んで病気が快癒したという伝承があるのが恋の水神社。允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御代(5世紀)に大和国大神神社のお告げで藤原仲興に延命の神水探索を命じたとも、…
愛知県蒲郡市、竹島へと渡る竹島橋のたもと、竹島園地横にあるお洒落な洋館が海辺の文学記念館。蒲郡は景勝地で雨が少ない(雨天日数は8%程度)ことから、保養地としても注目され、とくに大正・昭和期には多くの文化人が集う場になりま…
愛知県名古屋市中区にある織田家ゆかりの古社が那古野神社(なごやじんじゃ)。延喜11年(911年)、那古野庄今市場(後の名古屋城三の丸)に創建と伝わります。津島牛頭天王社(現・津島神社)を総本社とする牛頭天王社の一つで、若…
明治用水の開通により大規模な開墾が行なわれ、農業の先進的な取り組みが実施されたため、大正末期から昭和初期にかけて「日本デンマーク」(日本のデンマーク)と呼ばれた安城市。そんな背景を持った安城の自然と親しみ、花のある暮らし…