【完全攻略ガイド】 小田原城

小田原城

神奈川県小田原市、北条早雲をはじめとする後北条氏が、5代96年におよぶ栄華を極めた小田原城。後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、小田原高校の建つ八幡山に詰めの城を配しました。豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するために周囲9kmにも及ぶ土塁と空堀の外郭を築き、城郭都市を形成。「日本100名城」にも選定の名城です。

北条氏政・氏直が築いた城下町防衛体制「総構え」

室町時代の明応4年(1495年)、北条早雲(ほうじょう そううん)が伊豆・韮山(にらやま)から小田原城に入城(異説もあります)。
以後、北条氏(後北条氏)は小田原を拠点として、5代にわたって繁栄します。
これが北条五代で、3代・北条氏康(ほうじょううじやす)の時代には城下町も整備され、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄したのです。

4代・北条氏政(ほうじょううじまさ)、そして5代・北条氏直(ほうじょううじなお)は、豊臣秀吉の侵攻に備えて町全体を取り囲む巨大な「総構え」を構築。
城下町全体を外郭で囲い込み、城郭都市へと変貌させたのです。

北条氏康の時代には、甲斐の武田氏・駿河の今川氏と甲相駿三国同盟を締結してしましたが、今川義元、武田勝頼はすでに織田信長に討たれ、孤高の武将となっていました。
北条氏直は、当初、織田信長、後に家康の娘が氏直に嫁ぐことで家康と同盟を結んで、勢力を拡大させていましたが、豊臣政権下で城郭都市を構築した北条氏は、最後まで豊臣秀吉に抵抗し、家康の仲介を受けるものの、断固として臣従を拒みます。

こうして世にいう小田原征伐が始まります。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原を眼下にする山上に一夜城を築き、18万の大軍で小田原を包囲します。
大量の物資は水軍で運ぶという物量作戦で、軍事力では圧倒的な差がありました。
100日におよぶ籠城戦の後、ついに小田原城は陥落、開城し、北条氏は滅亡したのです。

総構えのイメージ図、かなり広範囲に土塁や堀切を構築

徳川家康が近世的な城郭に大修築

小田原城

小田原征伐後に徳川家康が関東に入封すると、豊臣秀吉の命で、小田原城主に家康の忠臣・大久保忠世(おおくぼただよ=徳川十六神将)が入城。

江戸に幕府を開いた徳川家康は、小田原城を西への防備ではなく、江戸への脅威と考え、慶長19年(1614年)、自ら数万の軍勢を率いてこの「総構え」と呼ばれる外郭を撤去させ、城の規模を縮小しています(「総構え」を構成した土塁の一部が小田原市浜町2丁目の蓮上院近くに現存)。
こうして北条5代の居館が近世城郭へと改修され、総石垣造りの近世的な城となったのです。

小田原藩の藩庁として機能し、将軍上洛の際の宿ともなっています。
寛永10年(1633年)の寛永小田原地震(相模・駿河・伊豆地震)、元禄16年(1703年)の元禄大地震と江戸時代には2度に渡る大地震にあって、元禄大地震の際には天守も倒壊していますが、宝永3年(1706年)に再建。
天秋再建直後の宝永4年(1707年)には、富士山の宝永大噴火による降灰で藩内の広い範囲で農業が困難に陥っていますが、天守は明治維新まで存続しています。

江戸時代には城門が13棟、櫓が8基あったと推測され、幕末には異国船からの防備のため海岸に3基の砲台が築かれてもいます。
明治3年に廃城となり明治3年〜明治5年に建物は二の丸平櫓を除いてことごとく破却され、天守台には藩主を祀る大久保神社が創建されています。

明治34年には二の丸に小田原御用邸が設けられましたが、関東大震災で損壊し、昭和5年に廃止されています(常宮御座所は光明寺書院客殿として現存)
関東大震災は震源に近いこともあって大きな被害を受け、唯一江戸時代の建物だった二の丸平櫓は倒壊、そして石垣の多くも倒壊しています。

現在の小田原城は、戦後の昭和25年に本丸、二の丸などの主要部分が小田原城址公園となり、その後整備復興したものです。

小田原城

天守、二の丸隅櫓、常盤木門、馬出門、常盤木門が復元

現存する3層4階の複合式天守は、昭和35年に復元されたコンクリート造りの復興天守。
天守台が復興するまでの間、観覧車があったことは、今では昔話になっています。

天守1階〜3階には、小田原城の歴史などが学べる展示室があり、4階が展望室。
展望室には高欄が取り付けられ、天守の本来の姿とは少し異なっていて、文化施設的な感じです。
展望室からは城下町の町並みや箱根連山と「太閤一夜城」とも称される石垣山城、真鶴半島、伊豆半島を一望にし、登城する価値は十分。
とくに石垣山城に関しては、籠城した将兵が城の構築をどう考えたのかがよくわかる位置関係なので、要チェックです。

本丸、二の丸、茶壺曲輪、馬屋曲輪は復元が進み馬出門、銅門(あかがねもん)、常盤木門(ときわぎもん)、二の丸隅櫓などが復元されており、馬出門からの登城ルートが確保されています。
昭和46年に復元の常盤木門は外観のみの復元。
平成2年に架橋された住吉橋、平成9年の銅門、平成21年の馬出門は木造で復元されています。
二の丸隅櫓は、関東大震災で崩落後、予算のないなかでの復興で、往時の2分の1の大きさに縮小されています。

常盤木門の2階は展示室「常盤木門SAMURAI館」になっているので、お見逃しなく。
天守も耐震工事、壁の修復などが行なわれ、白壁が美しく蘇っています。

公園内には報徳二宮神社などがあり、春は桜の名所で、日本さくら名所100選にも選定。
文化庁から「城に関係ない施設は撤去すべき」という指摘があり、かつて人気を博した動物園は、2023年12月14日に閉園に。
遊園地、野球場も今はなくなり、レジャー的な要素は失われていますが、その分、近世城郭らしさを取り戻しています。

「小田原市郷土文化館」の歴史資料室では、北条氏や小田原藩時代の資料なども展示されています。
展示室は無料で見学できるので、ぜひお立ち寄りを。

小田原城・二の丸隅櫓
東堀と二の丸隅櫓(残念ながら往時の2分の1のスケールです)
【完全攻略ガイド】 小田原城
名称小田原城/おだわらじょう
所在地神奈川県小田原市城内6-1
関連HP小田原城公式ホームページ
電車・バスでJR小田原駅から徒歩10分
ドライブで小田原厚木道路小田原東ICから約5km、荻窪ICから約3km
駐車場周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ小田原市城址公園係 TEL:0465-23-1373
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
小田原ちょうちん夏まつり

第34回小田原ちょうちんまつり|2025

2025年10月13日(月・祝)12:00~20:15(出店は11:00~20:30)、神奈川県小田原市の小田原城址公園二の丸広場などで『第34回小田原ちょうちんまつり』が開催されます。歴史に名を残した「小田原ちょうちん」をシンボルとして、

神奈川県三大名城

神奈川県三大名城とは!?

神奈川県の名城といえば、北条五代の居城で総構えとして知られる小田原城が筆頭。日本100名城の小田原城と、続日本100名城に選定される小机城、石垣山城が神奈川県三大名城ということに。石垣山城は、豊臣秀吉が小田原攻めの際に一夜で築いたといわれる

小田原城・八幡山古郭東曲輪

小田原城・八幡山古郭東曲輪

神奈川県小田原市、、小田原駅の南西側の丘陵上、県立小田原高校東、東海道本線沿いの高台が小田原城の八幡山古郭東曲輪(はちまんやまこかくひがしくるわ)。15世紀末、北条早雲の時代の小田原城の曲輪で、小田原城を取り囲んだ全周9kmの総構え(そうが

小田原城天守閣

小田原城天守閣

日本100名城に数えられる小田原城(神奈川県小田原市)。現存する小田原城天守閣は、昭和35年、小田原市制20周年記念事業として総工費8000万円をかけて建設された復興天守。宝永3年(1706年)の再建の際に作られた模型や設計図を基に、コンク

小田原城・常盤木門

小田原城・常盤木門

高い石垣で囲まれた小田原城本丸の正面に位置するのが常盤木門。本丸の出入は東の常盤木門と北側の鉄門(くろがねもん)という2つの門を使用していましたが、常盤木門が大手側(正門)にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固

小田原城・銅門

小田原城・銅門

「日本100名城」に選定される小田原城二の丸の表門が銅門(あかがねもん)。馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸へ登城する途中にある門で、現在の門は平成9年の復元。石垣による桝形(ますがた)、内仕切門(一の門)と渡櫓門(わたりやぐらもん=二の門

小田原城・馬出門

小田原城・馬出門

小田原城の大手筋(正面)に位置する、二の丸を守る重要な門が馬出門(うまだしもん)。小田原市の「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」で二の丸から本丸に至る往時の登城ルートの復元整備が行なわれていますが、平成21年に復元されたのが馬出門です

小田原城あじさい花菖蒲まつり

小田原城あじさい花菖蒲まつり|小田原市|2025

2025年5月31日(土)~6月15日(日)、神奈川県小田原市で『小田原城あじさい花菖蒲まつり』が開催されます。小田原城東堀にある花菖蒲園では、6月になると1万株の花菖蒲が開花し、周辺のアジサイ2500株と併せて観賞できます。19:00~2

よく読まれている記事

こちらもどうぞ