大姓49位の松田さんは、全国に29万人ほどが暮らし、シェアは0.23%ほど。生活の糧となる米を産する田んぼに、縁起の良い松を組み合わせた地形姓で、ルーツ探しでも松田という地名が重要なヒントとなります。松本さん(大姓15位)、松井さん(90位)、松尾さん(99位)が「松仲間」ということに。
神奈川県松田町発祥がメインのルーツ
桜井さん(86位)と松井さん(90位)はともにシェア0.16%と大差ない数ですが、松田さんに対して桜田さんは900位以下なので、松田さんが圧倒。
元来、桜は吉野桜に代表されるヤマザクラなので、田んぼの脇に植えられるケースはすくなかったということもあるのでしょうが、縁起のいい常緑樹の松は、地名にもなりやすかったのだと推測できます。
そんな松田さん探しの旅は、まずは相模国(神奈川県)の松田さんの流れから。
──相模国足柄上郡松田(神奈川県足柄上郡松田町)から発祥した藤原秀郷流波多野氏族の松田氏は、平安時代の末期、保元・平治の乱で活躍した波多野義通の子・波多野義常(はたのよしつね=相模国波多野荘を領有)が、松田右馬允(まつだうまのじょう)と名乗ったのを始まりとしています。
初代の松田氏である松田義常は、大庭景親とともに治承4年(1180年)、石橋山の合戦で源頼朝(みなもとのよりとも)を破り、源頼朝の鎌倉入りの際にも一族とともに松田城に籠り抗戦していますが、ついに力尽きて自害。
その後、文治4年(1188年)、松田義常の子・松田有経は許されて鎌倉幕府の御家人となっています。
関東の松田さんなら、ぜひ、松田義常が築城した松田城跡(足柄上郡松田町松田庶子)を訪ねてみましょう。
松田城はJR御殿場線・松田駅と東山北駅の中間、丹沢山系から伸びる丘陵の末端である松田山に築かれた大規模な連郭式の山城。
現在では、そのほとんどがミカン畑に変わっていますが、天神沢と旗矢沢に挟まれた丘陵から見る相模湾方面や酒匂川上流方面などへの見晴しが良く、いかにも中世の山城らしい地勢です。
史料も乏しく、全容も定かでありませんが、馬具なども出土しているとのこと。
岡山にも松田さんのルーツが
松田さんのルーツ探しの旅を備前国(岡山県)に移しましょう。
──相模国の松田有経の弟・松田高義の子孫が備前に移り、備前国西部一帯に君臨した松田氏が誕生しています。
備前の松田氏では戦国時代の武将・松田元隆(まつだもとみち)が有名。
松田元隆は赤松政則(あかまつまさのり)に加勢し、備前守護・山名氏と戦い、その恩賞で富山城(とみやまじょう/岡山市北区矢坂東町)に居城。
その子・松田元成(まつだもとなり/墓所は岡山県岡山市東区瀬戸町)は本拠を金川城(玉松城/岡山市北区御津金川)に移しています。
松田氏は、旭川と宇甘川(うかいがわ)の合流地点にある地の利を生かした臥竜山の山頂に金川城(岡山市北区御津金川)を築いていますが、本丸跡は東西80m・南北40mと非常に広く、往時には「西備前一の堅城」と謳われたほどで、同時代の山城では最大級のもの。
木戸跡や雄大な竪堀、曲輪跡が現存、備前国(岡山県)でも天神山城と並んで最大級の規模を誇る中世山城となっているのです。
直径5m、深さ10m以上という天守の井戸は、覗き込むと足がすくむほど。
小早川秀秋の備前入国で廃城に。
近くには城主・松田氏が相模国から勧請したと伝えられる七曲神社が鎮座。
この七曲神社は松田氏の氏神として、長禄元年(1457年)頃、相模国七曲山から金川に勧請されたと伝えられています。
ただし七曲山が定かでなく、氏神を勧請して金川城下の七曲に置いたとも推測されます。
『金川村史』には文明5年(1473年)、松田元就が七曲大明神を城の下に置いたと記されていて、この時代が松田氏の全盛期だったのかもしれません。
松田さんの代表家紋は✗印の「直違紋」
その後、備前の松田氏の中には再び故郷の相模国に戻るものもあり、小田原北条氏の三家老衆の一人として家中に重きをなすようになっています。
豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの際には、小田原城中の評定で「勝目の無い野戦は無謀」と籠城策を主張した松田憲秀(まつだのりひで)がとくに有名。
さらに陸奥国の松田氏や信濃国の松田氏も相模国の松田氏の分かれとか。
ほかにも、清和源氏新田氏族の上野国の松田氏、藤原良門流井伊氏族の遠江国の松田氏、尾張国の松田氏、越中国の松田氏、近江、丹後、石見、伊予、薩摩などにもそれぞれ松田氏の流れがあり、松田さんのルーツは多様です。
有名人でいえば松田優作は山口県下関市出身。
松田聖子は本名・蒲池法子(かまちのりこ)で、柳川城主・蒲池氏の末裔。
「松田聖子」という芸名は、松田という名に縁起のよい響きを感じたのかもしれません。
松田さんは山形県(大姓19位)と北陸、関西に多いのが特長。
日本の家紋は多様で、黒地に家紋の部分を白く抜いたものが白餅、白地に黒く抜いたのが黒餅、さらには、蛇の目という家紋もまん丸、さらに○があれば✕もあるのです。
呪符(じゅふ)の一つに直違紋(すじかいもん)という「✕印」の家紋がありますが、実はこれが松田さんの家紋のひとつで、2本の直違紋が使われる場合が多いのです。
十字紋と蛇の目紋、そしてこの直違紋の3つが「日本の三大呪符紋」といわれています。
呪符といっても「呪い」(のろい)をかけるわけではなく、建物の柱と柱の間に斜めに入れる補強材をモチーフとした家紋。
地震や風で建物が倒れるのを防ぐ役目から、「家を守る、城を守る」という決意の表れともいえる松田さんらしい家紋なのです。
この直違紋だけではなく、三つ頭波、目引籠(めひきかご)、十四花弁菊などと、どれも珍しい家紋を使用しているのが松田さんということに。
松田さんの家紋は、直違、二重直違、三つ頭波、目引籠、十四花弁菊、丸に三階松、丸に二本松、松皮菱、五三桐、沢瀉菱、升に唐花、丸に千鳥、白羽矢車、鶴の丸など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
松田さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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