飫肥城・大手門

難攻不落の名城として全国にその名を轟かせた日南市の飫肥城(おびじょう)。すべての城郭建築は残念ながら明治6年に取り壊されてしまっていますが、石垣だけは当時のまま現存し、銃弾跡が残されています。その石垣に合わせて昭和53年に復元されたのが大手門です。

昭和53年に復元された飫肥城の正門

当時の城郭研究の第一人者だった建築史家・藤岡通夫博士に設計、監修を依頼。
復元された飫肥城・大手門の建築材は、宮崎南部森林管理署の三ツ岩林木遺伝資源保存林(北郷町・原則として禁伐)から樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受けたもの。
釘を1本も使わない昔ながらの工法で建造された本瓦葺きの木造櫓門となっています。
完全な復原ではなく、周辺の石垣や主柱の根石などを参考に、他の現存城門などを考慮して復元されたもの。

復元工事中に、礎石に刻まれた正徳3年(1713年)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されています。
大手門の内側には鉄砲狭間付きの土塀が取り囲む、巨大な枡形(空間)もあって、ここが飫肥城の魅力のひとつになっています。

大手門の西側が松尾の丸。大手門の先が、本丸ですが、西側の一段高くなった土地に築かれた旧本丸は、江戸時代中期の地震で崩落が生じて、中の丸と呼ばれる大手門からすぐ北側の高台に新しく本丸が築かれています。

武家屋敷街から大手門へと続く緩やかな坂道は、今では舗装道路になっていますが、舗装の下にはかつての石段が眠っています。

飫肥城・大手門
名称飫肥城・大手門/おびじょう・おおてもん
所在地宮崎県日南市飫肥10-1-2
関連HP飫肥城下町保存会公式ホームページ
電車・バスでJR飫肥駅から徒歩15分
ドライブで東九州自動車道日南東郷ICから約4.5km
駐車場飫肥城観光駐車場(159台/無料)
問い合わせ日南市観光協会 TEL:0987-31-1134/FAX:0987-23-3100
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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