東大寺・法華堂(三月堂)

東大寺で現存する最古の遺構が国宝の法華堂。三月堂とも呼ばれ、733年(天平5)の創建と伝わっています。旧暦の3月に『法華経』を講義する法会『法華会』(ほっけえ)が行なわれたことから、法華堂の名と三月堂の通称が生まれました。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築で、堂内に安置される10体の仏像も奈良時代の作。

奈良時代創建の建物が現存し、国宝に!

寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされ、不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん=国宝)を本尊として祀るための堂(羂索堂)。

外見は1棟のように見える建物ですが、寄棟造りの正堂(しょうどう)と1199(正治元)年に重源上人によって増築された礼堂(らいどう)が一体となっています。
もともとは正堂と礼堂が軒を接して建つ配置でしたが、鎌倉時代に、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだもの。

よく見れば、正堂は天平初期の建築ですが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築になっています。

このお堂で華厳経が日本初の講義を行なったといわれています。

堂内には本尊の不空羂索観音立像(ふくうけんさくりつぞう)、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士立像(みっしゃくりきしりつぞう)、四天王立像の計9体の乾漆像と、塑造の執金剛神立像(しつこんごうしんりつぞう)を安置しています。

東大寺は「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録。

[su_box title=”戦火に巻き込まれた東大寺” box_color=”#d6c556″] 東大寺では、1180(治承4)年の平重衡(たいらのしげひら=平清盛の五男)の南都焼討による兵火と、1567(永禄10)年の永禄の変(えいろくのへん=三好・松永の兵乱)で、多くの堂宇を失っています。

平氏政権に反する対応をした奈良の仏教勢力に対し、平清盛の命を受けた平重衡は、南都寺院を焼き討ちにします。鎮護国家体制(律令制度)の象徴的な存在だった東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺はその対象となり、東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の大半を失っています。
かろうじて焼け残ったのは法華堂(三月堂)と二月堂、転害門、正倉院です。

三好・松永の兵乱では、東大寺の塔頭や戒壇院が炎上し、松永久秀軍は戒壇院の焼け跡に陣を構えています。
三好三人衆・筒井順慶連合軍が大仏殿に立て籠もったため(東大寺大仏殿の戦い)、大仏殿は再び焼失。
二月堂、法華堂(三月堂)、正倉院、南大門、鐘楼、転害門、念仏堂などが焼失を免れています。
鐘楼堂にも火がつきましたが僧侶達の懸命な消火活動によって類焼を免れて現存。
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戦火に巻き込まれた東大寺

東大寺では、1180(治承4)年の平重衡(たいらのしげひら=平清盛の五男)の南都焼討による兵火と、1567(永禄10)年の永禄の変(えいろくのへん=三好・松永の兵乱)で、多くの堂宇を失っています。

平氏政権に反する対応をした奈良の仏教勢力に対し、平清盛の命を受けた平重衡は、南都寺院を焼き討ちにします。鎮護国家体制(律令制度)の象徴的な存在だった東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺はその対象となり、東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の大半を失っています。
かろうじて焼け残ったのは法華堂(三月堂)と二月堂、転害門、正倉院です。

三好・松永の兵乱では、東大寺の塔頭や戒壇院が炎上し、松永久秀軍は戒壇院の焼け跡に陣を構えています。
三好三人衆・筒井順慶連合軍が大仏殿に立て籠もったため(東大寺大仏殿の戦い)、大仏殿は再び焼失。
二月堂、法華堂(三月堂)、正倉院、南大門、鐘楼、転害門、念仏堂などが焼失を免れています。
鐘楼堂にも火がつきましたが僧侶達の懸命な消火活動によって類焼を免れて現存。

東大寺・法華堂(三月堂)
名称東大寺・法華堂(三月堂)/とうだいじほっけどう(さんがつどう)
Toudaiji Temple Hokke-dō (Sangatsu-dō)
所在地奈良県奈良市雑司町406-1
関連HP東大寺公式ホームページ
電車・バスで近鉄奈良線・JR奈良駅から奈良交通バス市内循環で4~7分、大仏殿春日大社前下車、徒歩5分
ドライブで京奈和自動車道木津ICから約6.4kmで県営登大路南駐車場
駐車場県営奈良登大路自動車駐車場(275台/有料)
春秋の観光シーズンには県営奈良大仏殿前自動車駐車場は観光バス専用となるため注意を
問い合わせ東大寺寺務所 TEL:0742-22-5511/FAX:0742-22-0808
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

東大寺

728(神亀4)年、聖武天皇が皇太子である基親王(もといしんのう)供養のため建立した金鍾山寺(きんしょうさんじ)が東大寺の始まり。741(天平13)年に聖武天皇が国分寺建立の詔を出した際に、金鍾山寺を大和国分寺として金光明寺(きんこうみょう

東大寺・大仏

奈良の大仏と呼ばれ親しまれている、銅造の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)。華厳経の本尊で、743(天平15)年に聖武天皇の勅願により鋳造されたもの。東大寺の本尊にもなっています。752(天平勝宝4)年の開眼で国宝に指定されています。像高1

東大寺・大仏殿

728(神亀5)年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺が始まりという東大寺。743(天平15)年、聖武天皇の大仏建立の詔により造られた「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする東大寺ですが、その大仏を安置するのが

東大寺・南大門

東大寺南大門の創建は奈良時代ですが、当初のものは平安時代に大風で倒壊。現存する南大門は、鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)により再建されたもので、1199(正治元)年から4年の歳月をかけ建てられた壮大な門。運慶や快慶

東大寺・金銅八角灯籠

東大寺の大仏殿(金堂)の前に配されているのが金銅八角灯籠。見逃しがちな灯籠ですが、実はこの灯籠、大仏開眼と同じ年、752(天平勝宝4)年の鋳造と推測され、国宝に指定されているのです。音声菩薩、獅子が配された羽目板にも注目を東北側の銅鈸子東南

東大寺・鐘楼

東大寺の梵鐘は、大仏開眼と同年の752(天平勝宝4)年の鋳造といわれ、高さ3.86m、口径2.71m、重さ26.3tの大鐘。平重衡(たいらのしげひら=平清盛の五男)の南都焼討で焼失後、鐘を吊るした鐘楼は鎌倉時代の承元年間(1207〜1210

東大寺・中門

東大寺は、741(天平13)年、聖武天皇の詔で、国家鎮護のため諸国に建立を命じた国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の総本山。南側から南大門、中門、金堂(仏殿)、講堂と続く東大寺式伽藍配置は、諸国の国分寺の手本になってい

東大寺・二月堂

大仏開眼の大供養が行なわれた752(天平勝宝4)年に始まった歴史ある行事が、東大寺・二月堂に伝わる『修二会』(しゅにえ・正しくは十一面悔過、通称「お水取り」)。現存する東大寺・二月堂は、1667(寛文7)年、「お水取り」の最中に失火で焼失し

国宝の東大寺の大鐘で、除夜の鐘を撞こう!

東大寺の鐘楼に架かる大鐘は、大仏開眼と同年の752(天平勝宝4)年の鋳造で国宝。この天平の大鐘を除夜の鐘に撞くことができます。先着800名に限るので、整理券を獲得する必要があります。佐保川蛍、東大寺鐘、三笠山雪、春日野鹿、南円堂藤、猿沢池月

東大寺・二月堂『お水取り』(修二会)

お水取りで知られる東大寺・二月堂の『修二会』(しゅにえ)の正式名称は「十一面悔過」(じゅういちめんけか)。二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味しており、僧侶たちが世の中の罪や穢(けがれ)を一身に背負って祈

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