長崎新地中華街

長崎新地中華街

長崎県長崎市新地町にある長崎新地中華街は、横浜、神戸に並ぶ日本三大中華街のひとつ。唐船専用の倉庫を建てるために埋め立てられた新地に、明治以降にチャイナタウンが形成されたもの。 東西南北全ての入り口に牌楼(ぱいろう=中華門)が建ち、東西と南北の道が交差する通りには、中華料理店や商店ど約40店舗が軒を並べています。

ぜひ味わってみたい長崎チャンポン

現在の新地町一帯は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた土地。
幕末に中国船の荷蔵が火事で焼失し、唐人屋敷前面の海を埋め立てて新たに荷蔵(新地蔵所)が造られました。
開国後の明治初期に、唐人屋敷と新地蔵所が廃止され、新地蔵所と称された地に中国人街が形成されたもの。
4ヶ所の入口には朱塗りの中華門が立ち、東門には青龍、西門には白虎、南門には朱雀、北門には玄武(蛇と亀)と方角の神様があしらわれています。
中華街に隣接する湊公園は、中国の旧正月を祝う『長崎ランタンフェスティバル』のメイン会場にもなっています。
『長崎ランタンフェスティバル』(1月下旬〜2月上旬)の時期に訪れれば、赤色のランタン(中国提灯)が通りを彩る独特な雰囲気を味わうことができます。

長崎ちゃんぽんや皿うどんなど、長崎らしい独特の食文化を持つ人気のスポットになっています。

江戸時代から長崎で活躍の中国人がルーツ

鎖国政策の江戸時代には、長崎出島が唯一の海外貿易の拠点でした。
出島に住むオランダ人と同様に、中国人(唐人)にも居留地が与えられ、役人詰め所、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などが築かれた唐人屋敷(唐館)が設けられていました。
中国人は、貿易商、通訳として活躍し、人口6万人のうち1万人は中国人というほどの規模となっていたのです。
元禄11年(1698年)の火災で荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海面3500坪を埋め立て、町域から隔絶した場所に新地を築いて荷物倉所(新地蔵所)を設けました。
明治維新、開国とともに唐人屋敷、新地蔵所が廃止されたため、居留地の中国人たちは、海に臨む便利な新地に移転し、チャイナタウンが形成されたのです。
現在の長崎独特の「おくんち」、「精霊流し」、「ペーロン」などの文化も、中国文化との交流がもたらしたもの。

ちゃんぽんは、福建省の福建料理「湯肉絲麺」をベースに、明治時代半ば、中華料理店「四海樓」の初代店主・陳平順が考案したといわれています。
皿うどんも陳平順が、「炒肉絲麺」(チャニイシイメン)をアレンジしたものといわれています。

長崎新地中華街
名称 長崎新地中華街/ながさきしんちちゅうかがい
所在地 長崎県長崎市新地町
関連HP 長崎新地中華街商店街組合公式ホームページ
電車・バスで JR長崎駅から徒歩15分。または、路面電車を利用
ドライブで 長崎自動車道長崎ICから約4.3km
駐車場 周辺の有料駐車場などを利用
問い合わせ 長崎新地中華街商店街組合 FAX:095-822-6540
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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