日本人の名前(姓)で第6位となるのが伊藤さん。全国で113万人、国民の0.9%を占める伊藤さんがいるのです。中部地方占有率1.34%で鈴木さんに次ぐ2位ですが、実は鈴木さんは和歌山県、伊藤さんは三重県と、ともに紀伊半島がルーツです。今も三重県では伊藤さんが3.23%でダントツです。
伊藤さんなら、まずは知っておきたい平景清
伊藤さんならぜひとも知っておきたい歴史的な名前が、平景清(たいらのかげきよ/藤原景清)。
「悪七兵衛」(あくしちびようえ)の異名を持つほど勇猛で、源平時代最強の武士であったとされるのが平景清です。
平景清は、『平家物語』巻十一に、屋島の合戦で源氏方の美尾谷十郎(みおのやじゅうろう)と戦い、熊手でその兜(かぶと)の錣(しころ=後頭部から首にかけてを守る部分)を素手で引きちぎったという有名な「錣引き」エピソードが記されています。
平景清は伝説上の人物で、はたして実在したのかも定かでありませんが、山口県美祢市にある景清洞には壇の浦で敗れた平景清が潜んでいたという伝説が残されています。
壇の浦で平家滅亡後に京に戻った平景清は、やがては源頼朝を討たんものと、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、土工に身を隠していたという話も鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されています。
また、京の清水寺潜伏伝説もあり、、爪で自然石に観世音菩薩を彫ったとされ、清水寺には爪型観音(随求堂の前に立つ石灯籠の、火袋の中にある小観音像)が残されているのです。
また、九州に逃れたという伝説もあり、なんと九州では平景清は宮崎の生目神社(いきめじんじゃ)の祭神となっています。
全国のそこかしこに景清屋敷やら景清眼洗いの井戸なども残されているし、なかには広島の安芸津には「景清埋蔵金伝説」すらあるので、まさに伝説中の伝説的な武将ということに。
伊藤さんは、伊勢の藤原さん!
さてこの平景清ですが、平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で呼ばれているが、本名を伊藤景清といい、れっきとした名門・藤原氏の子孫。
伊藤姓は伊勢(いせ=現在の三重県北中部)の藤原氏という意味で、その祖は佐藤氏と同じ藤原北家・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。
藤原秀郷7代の子孫である尾藤基影(びとうもとかげ)が伊勢守となって、伊勢に来て伊藤氏を称したのが伊藤さんの始まり。
「伊勢の伊藤は天下の伊藤、伊勢神宮のお膝元」という歌があるほどなのです。
では、平景清はどこの出身なのでしょう?
まずは平景清屋敷跡と伝わる桑名市の遺跡へ。
整然と田んぼが広がるのどかな田園風景ですが、圃場整理事業以前は条里遺構の見られる場所だったとか。
ここから鎌倉~室町時代の山茶碗(平安時代末〜室町時代に東海地方で生産された茶碗)、大窯製品が出土しています。
平景清の曽祖父・伊藤基信の館跡とも推測されていますが、いずれにしろ三重県での伊藤さんのルーツのひとつ。
ただし水田横に「景清遺跡」の石碑が残るのみで、わざわざ訪れるには少しばかり残念な存在。
伊藤さんは、伊勢の藤原で、三重県北部の伊勢がルーツ、それは伊勢神宮のお膝元と覚えておくだけでも十分でしょう。
同じ伊勢(三重県北部)では、亀山市の「野元坂館」も平景清屋敷跡ではないかと推測されている場所。
昭和44年、東名阪国道建設の際の発掘調査では、土塁、周涅(周囲の黒い泥)、溝址土拡、柱穴群が確認され、土師器(はじき)、須恵器、陶器などが出土しています。
大府市は愛知の伊藤さんのルーツかもしれない
その後、伊藤氏は伊勢湾の貿易港・安濃津を支配した伊勢平氏(実は平清盛もルーツは伊勢です)に従い、保元の乱や平治の乱では伊藤影綱(いとうかげつな/藤原景綱)が活躍し、その子・伊藤忠清(いとうただきよ/藤原忠清)や忠清の子の前述の平景清が源平合戦で活躍しています。
その後、子孫は伊勢から伊勢湾を渡り尾張、三河、さらには美濃(岐阜県南部)を経て各地に広がっていったのです。
こうした経緯を考えると、三重県や愛知県に今も伊藤さんが多いのは納得がいきます。
伊藤さんの多い愛知県には、大府市吉田町に景清神社が鎮座しています。
大府は知多半島の根元で、伊勢湾の海上交通で結ばれていたのしょう、この地にも景清屋敷の伝承があり、鳥居横に「景清公之旧跡」の石碑が立っています。
景清神社のすぐ東にある大府市吉田町半月(はんつき)の常福寺は、壇ノ浦の合戦で源氏に敗れた平景清が難を逃れ居住したという伝承までも残されています。
また、半月という地名も平景清が半月で一門の供養のための仏像を彫ったことに由来するとも。
というわけで大府市は愛知の伊藤さんのルーツとも推測できますが、似たような話は全国にあり、当時の景清ブームがそうした伝説を後付で生んだのかもしれません。
しかし、名古屋市熱田区にも景清社があるので、愛知県は平景清となんらかの関係性があったのかもしれません。
平景清は、熱田宮司との縁があり、ここに滞在したという伝承があります。
周辺には伊藤畳店など伊藤姓も多いのが少し気になるところ。
ちなみに源氏の総大将・源頼朝は源義朝と熱田宮司の娘との子であり、熱田で生まれ育っています。
伊東さんは伊豆・伊東市にルーツがある
ここで、伊東さんのルーツにも触れておきましょう。
伊豆国(現在の静岡県伊豆地方)の伊東氏は、藤原南家・藤原為憲憲(ふじわらのためのり)を始祖とする工藤氏一族(曾我兄弟の曾我氏も工藤氏)の狩野氏が、伊東に入り伊東姓を名乗ったのが始まり。
伊東氏は、伊東荘・河津荘・宇佐美荘を支配する伊豆東海岸の豪族となり、建武の中興時には北朝方として功があったため日向国に所領を与えられ、一族は現在の宮崎県に移り住みます。
後に飫肥城の城主となって明治維新を迎えるのがこの伊東さん一族。
一刀流の創始者である伊藤一刀斎景久も伊豆国伊東出身だから、この一族だと推測できます。
伊東市には伊東家の守護神である葛見神社(くすみじんじゃ=久豆弥神社)が鎮座しているので、伊東さんはぜひ参拝を。
葛見庄初代地頭・工藤祐高(くどうすけたか/伊東家次=伊東氏の祖)が京・伏見稲荷の分霊を勧請して創建したもので、境内の南200mに祐高(伊東家次)の墓も残されています。
伊東氏は代々稲荷神を信仰したといい、各地へ分散した伊東氏のなかには居地に稲荷神を勧請する人が多かったとか。
伊藤さんの家紋には伊藤藤もある
日本の大姓6位の伊藤さんは、伊勢から出たので今でも三重県では一番の大姓。
そのほか、岐阜(2位/1.59%)と愛知(3位/2.10%)にも多く、秋田(4位/2.84%)、千葉(5位/1.08%)も伊藤さんが多い土地です。
一方、伊東さんは、東京、神奈川、長野、大分でポピュラーな名前。
家紋は、同じ藤原氏の出とはいえ系統が違うので、伊藤さんは上り藤(伊藤藤)や下り藤、釘抜、左巴、片喰(かたばみ)。
伊東さんは庵木瓜(いおりもっこう)が代表紋となっています。
伊東さんの庵木瓜は、始祖の為憲が木工助(もくのすけ=造営などを担当する木工寮次官)だったことから意匠化したもの。
家を表わす庵は木工という職種を、中の木瓜もまた木工に引っかけているのです。
ほかに伊藤さん、伊東さんともに、木瓜、蔦、茗荷、九曜などが家紋として使われています。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
伊藤さん&伊東さんのルーツを探せ! | |
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