出雲国庁跡

出雲国庁跡

島根県松江市大草町、意宇平野(いうへいや)の中央南寄り、出雲国総社である六所神社周辺が奈良、平安時代に出雲国庁(出雲国府)のあった場所、出雲国庁跡と推測されています。つまりは、一帯の条里制の名残りをとどめる水田が国府ということに。昭和43年から3年がかりの調査によって確認された遺構をもとに、復元整備がされています。

近江国庁の地割とも一致!

律令時代の出雲国(いずものくに)は、9郡(意宇郡、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡、神門郡、飯石郡、仁多郡、大原郡)があり、天平5年(733年)に完成し、聖武天皇に上奏された『出雲国風土記』には、出雲国庁のほか意宇郡家(おうぐうけ)、意宇軍団、黒田駅(くろだのうまや)の4つの役所が同じ敷地(出雲国府)に建っていたと記されています。

出雲国庁の所在地は、江戸時代以降諸説があり定かでありませんでしたが、『元禄四年意宇郡大草村御検地帳』(1691年)に「こくてふ」(こくちょう)の字名が記されていたことなどから、松江市大草町が有力な候補地となり、昭和43年から3年間にわたっての最初の発掘調査が行なわれたのです(現在、島根県教育庁埋蔵文化財調査センターによる発掘調査が継続的に行なわれています)。

出雲国庁跡の発掘調査では、須恵器、硯(すずり)、木簡(もっかん)、墨書のある土器、玉作に用いた砥石(といし)、メノウ原石、瓦、和同開珎(貨幣)などが出土しています。

近江国庁跡(滋賀県大津市)の地割とも一致し、出雲国庁の正庁後殿の位置もほぼ推定されています。
これまでの発掘調査で明らかになっているのは、政庁後殿もしくは正殿(六所脇地区)、北方官衙(宮の後地区)、国司館(大舎原地区)、国府工房(日岸田地区)などです。
そのうち、政庁後殿もしくは正殿と推測できる四面廂付(しめんひさしつき)大型建物の跡は、六所神社本殿の東から発掘されています。

ちなみに、総社は、赴任した国司が、国内の一之宮、二之宮など各神社に巡拝する労苦を解消するため、各神社に祀られた神々を合祀した神社で、国府近くに建立されていました。
つまりは、六所神社も総社であることが確定ということに。

出雲国庁跡
名称 出雲国庁跡/いずもこくちょうあと
所在地 島根県松江市大草町
関連HP 松江観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR松江駅からバスで20分、風土記の丘入口下車、徒歩15分
ドライブで 山陰自動車道竹矢ICから約2km
駐車場 あり
問い合わせ 松江市観光文化課 TEL:0852-55-5214
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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