安徳天皇阿弥陀寺陵

源平の最終決戦となった壇之浦の合戦で平家一門が敗れ、二位尼(にいのあま)に抱かれ、数え年8歳だった安徳天皇(平清盛の孫)は入水して命を絶ちます。赤間神宮の水天門は、入水した安徳帝を慰めるために竜宮城に見立てて建てられており、隣接して安徳天皇阿弥陀寺陵(あんとくてんのうあみだじのみささぎ)があります。

安徳天皇が眠る宮内庁の陵墓

赤間神宮は、明治維新以前の神仏混淆(しんぶつこんこう)時代には阿弥陀寺という寺でした。
安徳天皇の遺体は壇之浦に面した御裳川(みもすそがわ)で引き上げられ、1185(寿永4)年3月24日に紅石山麓の阿弥陀寺に埋葬されたと伝えられています。

その後、1191(建久2)年12月14日、後鳥羽天皇が長門国(ながとのくに=現・山口県)に勅して陵上に御影堂を建立。
この御影堂が明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で、天皇社と改称され、その後赤間神社となったもの。

安徳天皇の陵墓が阿弥陀寺陵と呼ばれるのは江戸時代までの呼称を引き継いでいるため。
陵は明治13年に修築され宮内庁の管轄となっています。

安徳天皇阿弥陀寺陵
名称安徳天皇阿弥陀寺陵/あんとくてんのうあみだじのみささぎ
所在地山口県下関市阿弥陀寺町4-1
関連HP宮内庁公式ホームページ
電車・バスでJR下関駅からサンデン交通バス山陽方面行きで10分、赤間神宮前下車
ドライブで中国自動車道下関ICから約3.6km
駐車場20台/無料
問い合わせ下関市観光政策課 TEL:083-231-1350/FAX:083-231-1853
安徳天皇陵墓参考地(越知町)

安徳天皇陵墓参考地(越知町)

高知県越知町の横倉山にある安徳天皇が眠ると伝えられる安徳天皇陵墓参考地の鞠ケ奈呂陵墓。文治元年(1187年)、壇ノ浦の合戦で敗れた平家残党が安徳天皇を擁して文治3年(1190年)、土佐国・横倉山に落ちのびて行在所を築いたと伝わる平家落人伝説

赤間神宮・芳一堂

赤間ヶ関阿弥陀寺(今の赤間神宮)に住む盲目の琵琶法師・芳一の演奏する壇之浦の下りに平家の亡霊がその調べに聞きいるという「耳なし芳一の話」。昭和32年に建立された赤間神宮境内の芳一堂。その名の通り、山口県防府市出身の彫刻家、押田政夫氏の芳一像

赤間神宮・七盛塚

赤間神宮にある平教盛、平知盛、平経盛、平教経、平資盛、平清経、平有盛、平盛継、平時子(従二位尼)など平家一門を祀る七盛塚。彦島にある平清盛と合わせて盛の付く武将が7人いるのが七盛塚という名の由来とか。平家一門の供養塔を江戸時代に集めた塚関ヶ

赤間神宮

関門海峡を見下ろす高台に建つ赤間神宮。1185(文治元)年の壇之浦の戦で敗れて入水した安徳天皇を祀る神社です。もとは阿弥陀寺という寺で、1191(建久2)年、勅命で安徳天皇の御陵に御影堂が建立されたため、安徳天皇御影堂と呼ばれました。明治の

 

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