ヤマト王権の大王墓(だいおうぼ)とされる、あるいはその可能性のある古墳は、奈良県と大阪府に22基。最大の大仙陵古墳は、宮内庁が仁徳天皇の陵に治定していますが、被葬者は今も謎。22基の大王墓を年代順に並べてみると、時代的な場所的な推移もわかります。
箸墓古墳(はしはかこふん)|奈良県桜井市
所在地:奈良県桜井市箸中/纒向古墳群(まきむくこふんぐん)
墳丘長:280m
築造時期:3世紀後半
宮内庁の治定:大市墓(おおいちのはか)=第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命((やまとととひももそひめのみこと)の墓
実際の被葬者は?:ヤマト王権(大和政権)の権力の象徴である前方後円墳のルーツでもあるため、卑弥呼(ひみこ)の墓という説も
西殿塚古墳|奈良県天理市
所在地:奈良県天理市萱生町183/大和古墳群(中山支群)
墳丘長:219m
築造時期:3世紀後半
宮内庁の治定:手白香皇女(第26代継体天皇皇后=6世紀前半)の陵
実際の被葬者は?:卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳に後続するヤマト王権の大王
渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)|奈良県天理市
所在地:奈良県天理市渋谷町/柳本古墳群
墳丘長:300m
築造時期:4世紀中頃〜4世紀後半頃
宮内庁の治定:山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)=第12代・景行天皇の陵
実際の被葬者は?:不明(初期ヤマト王権の大王)
五社神古墳|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市山陵町宮ノ谷/佐紀盾列古墳群
墳丘長:267m
築造時期:5世紀前半
宮内庁の治定:狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)=仲哀天皇皇后である神功皇后陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)
宝来山古墳|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市尼辻町
墳丘長:227m
築造時期:4世紀後半頃〜5世紀初頭
宮内庁の治定:菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)=11代・垂仁天皇の陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)
佐紀石塚山古墳|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市山陵町323/佐紀盾列古墳群
墳丘長:218m
築造時期:4世紀半ば
宮内庁の治定:狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)=第13代・成務天皇陵(せいむてんのうりょう)
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)
仲津山古墳|大阪府藤井寺市
所在地:大阪府藤井寺市沢田4丁目/古市古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:290m
築造時期:4世紀末〜5世紀初頭
宮内庁の治定:仲津山陵(なかつやまのみささぎ)=15代・応神天皇皇后の仲姫命(なかつひめのみこと)の陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王の墓)
上石津ミサンザイ古墳|大阪府堺市
所在地:大阪府堺市西区石津ヶ丘/百舌鳥古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:墳丘長365m/国内第3位
築造時期:5世紀初頭
宮内庁の治定:百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)=第17代履中天皇(りちゅうてんのう)の陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)
大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)よりも古くに造られたことが判明、第15代・応神天皇ー第16代・仁徳天皇ー第17代・履中天皇で、仁徳天皇の第一皇子が履中天皇ということから考えれば、大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)と上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)が築かれた年代が逆転することに
市庭古墳(いちにわこふん)|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市佐紀町/佐紀盾列古墳群
墳丘長:253m
築造時期:5世紀前半
宮内庁の治定:楊梅陵(やまもものみささぎ)=第51代・平城天皇(へいぜいてんのう/在位806年〜809年)の陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王、またはそれに近い身分の人)
弘仁15年7月7日(824年8月5日)に平城京で崩御した平城天皇(平安時代初期に在位)の陵であることは歴史的にもおかしいことに(平城天皇とは400年ものギャップが)
墓山古墳|大阪府羽曳野市
所在地:大阪府羽曳野市白鳥3丁目/古市古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:225m
築造時期:5世紀前半
宮内庁の治定:応神天皇惠我藻伏崗陵(誉田御廟山古墳)の陪冢(ばいちょう)
実際の被葬者は?:不明(同時代の他の大王墓と比べて小規模のため、大王墓でない可能性も)
誉田御廟山古墳|大阪府羽曳野市
所在地:大阪市羽曳野市誉田3・5・6丁目/古市古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:425m/国内第2位
築造時期:5世紀前半
宮内庁の治定:惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)=第15代・応神天皇の陵
実際の被葬者は?:体積の143万3960立方メートルは日本一なので、かなりの権力を有した大王ということに
ウワナベ古墳|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市法華寺町宇和奈辺1823/佐紀盾列古墳群
墳丘長:270m
築造時期:5世紀前半
宮内庁の治定:八田皇女(やたのひめみこ=仁徳天皇の后)の陵墓参考地
実際の被葬者は?:倭王珍(倭の五王の1人)の臣で、王族出身の倭隋(わずい)など、ヤマト王権の王に次ぐ人物と推測されています
ヒシアゲ古墳|奈良県奈良市
所在地:奈良県奈良市佐紀町2041-2/佐紀盾列古墳群
墳丘長:219m
築造時期:5世紀中葉~後半
宮内庁の治定:平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)=仁徳天皇皇后である磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王、それに近い人物)
太田茶臼山古墳|大阪府茨木市
所在地:大阪府茨木市太田3-10/三島古墳群
墳丘長:226m
築造時期:5世紀中葉
宮内庁の治定:三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)=第26代・継体天皇(けいたいてんのう)の陵
実際の被葬者は?:継体天皇の没年(531年)とは整合性がないため、被葬者は定かでありません(継体天皇の陵墓は高槻市の今城塚古墳とする説が有力)
大仙陵古墳|大阪府堺市
所在地:大阪府堺市堺区大仙町7-1/百舌鳥古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:525m/日本最大
築造時期:5世紀中頃
宮内庁の治定:百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)=第16代・仁徳天皇の陵
実際の被葬者は?:仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半に実在したと考えられますが、考古学的にはミサンザイ古墳(履中天皇陵・5世紀前半)→大仙陵古墳(仁徳天皇陵・5世紀中頃)→田出井山古墳(反正天皇陵・5世紀中頃)の順に造られたことが推定されており、16代・仁徳天皇→17代・履中天皇→18代・反正天皇という在位順との矛盾も
近年では教科書での呼び名も「仁徳天皇陵」から「大仙陵古墳」に変わっています
ニサンザイ古墳|大阪府堺市
所在地:大阪府堺市北区百舌鳥西之町3丁/古市古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:300m
築造時期:5世紀後半
宮内庁の治定:東百舌鳥陵墓参考地(被葬候補者:第18代・反正天皇の空墓)/百舌鳥古墳群の田出井山古墳を反正天皇陵に比定
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)
市野山古墳|大阪府藤井寺市
所在地:大阪府藤井寺市国府1丁目/古市古墳群(世界文化遺産)
墳丘長:230m
築造時期:5世紀中葉〜後葉
宮内庁の治定:惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)=第19代・允恭天皇の陵
実際の被葬者は?:不明(同時代の大王墓よりも規模が小さいので、大王に準じる人の墓という可能性も)
岡ミサンザイ古墳|大阪府藤井寺市
所在地:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
墳丘長:墳丘長242m
築造時期:5世紀末葉
宮内庁の治定:恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)として第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう=神功皇后の夫とされていますが、歴史学的には実在性が乏しい天皇の一人)の陵
実際の被葬者は?:築造当時では全国的に見ても突出する巨大古墳のため、倭の五王(わのごおう=宋の正史『宋書』に登場する倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武)最後の武(ぶ=第21代雄略天皇に比定)の墓とも
河内大塚山古墳|大阪府松原市・羽曳野市
所在地:大阪府松原市西大塚1丁目・羽曳野市南恵我之荘
墳丘長:335m/国内5位
築造時期:6世紀後半
宮内庁の治定:大塚陵墓参考地(被葬候補者:第21代雄略天皇)
実際の被葬者は?:不明(ヤマト王権の大王)、地元では、雄略天皇(考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇、5世紀末の在位と推測され、築造年代とは不一致)の陵という伝承も
今城塚古墳|大阪府高槻市
所在地:大阪府高槻市郡家新町(古墳時代の大王墓としては唯一、淀川流域に築かれた古墳)
墳丘長:190m
築造時期:6世紀前半
宮内庁の治定:なし(宮内庁は天皇陵としていません)
実際の被葬者は?:6世紀前半(531年)に没した継体天皇(けいたいてんのう)の陵墓とするのが学界の定説(宮内庁は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳を陵墓に治定)
平田梅山古墳|奈良県明日香村
所在地:奈良県高市郡明日香村平田
墳丘長:140m
築造時期:6世紀後半〜7世紀初頭
宮内庁の治定:檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)として第29代・欽明天皇の陵
実際の被葬者は?:蘇我馬子の父・蘇我稲目(そがのいなめ)との説も
丸山古墳|奈良県橿原市
所在地:奈良県橿原市五条野町
墳丘長:318m/全国6位
築造時期:6世紀後半
宮内庁の治定:畝傍陵墓参考地(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)
実際の被葬者は?:被葬者は定かでありませんが、ヤマト王権最後となる王墓
日本の大王墓 全22基 完全ガイド | |
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