東慶寺

東慶寺

花の寺としても親しまれる鎌倉にある臨済宗円覚寺派の名刹、東慶寺は、弘安8年(1285年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の妻・覚山志道尼(かくざんしどうに)が開山。明治35年までは松ヶ岡御所と呼ばれ、男子禁制の格式高い尼寺でした。「駆込寺」(かけこみでら)、「縁切寺」(えんきりでら)としても有名。

尼寺の風情を残す境内に梅、水仙、アジサイなど四季の花が咲く

東慶寺
東慶寺
東慶寺

縁切寺とは、女性の側から離婚できなかった江戸時代以前に、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のこと。
上州得川郷(徳川郷)・満徳寺(群馬県太田市徳川町/明治初年に廃寺で、現在は縁切寺満徳寺遺跡公園、太田市立縁切寺満徳寺資料館になっています)とともに、女人救済の寺としても知られていました。
江戸時代に幕府から公認された縁切寺は、東慶寺と満徳寺だけだったのです。

大坂落城の翌年の元和2年(1616年)、豊臣秀頼の娘・天秀尼(てんしゅうに)が千姫(徳川秀忠と江の娘、豊臣秀頼・本多忠刻の正室)の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となったことでも有名。
千姫は仏殿を寄進していますが、この仏殿は明治40年、横浜の三渓園に移築され、現存しています。
寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔として、天秀尼の墓が現存しています。

明治38年に円覚寺派管長・釈宗演禅師が入寺し、禅宗五山派の独立の尼寺を止め臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。

夏目漱石は明治37年の年末から38年初めにかけて、円覚寺の帰源院に止宿し釈宗演のもとに参禅しています(その体験を元に『門』を著しています)。
大正元年9月11日、漱石は親友で南満州鉄道(満鉄)総裁の中村是公(なかむらよしこと)とともに、東慶寺に移っていた宗演老師を訪ねています。
漱石は、この日の出来事を『初秋の一日』として書き残し、その一節は平成6年12月に山門前に建立された「夏目漱石参禅百年記念碑」に記されています。

「夏目漱石参禅百年記念碑」が立つ場所は、南満州鉄道(満鉄)総裁の中村是公(なかむらよしこと)と漱石が立ち小便をした場所。
中村是公は、寺に着くと門前の稲田の縁に立って小便をしたので、漱石も用心のため「その顰(ひん)に倣(なら)った」(立ち小便した)場所なんだとか。

関東大震災で唯一倒壊を免れたという鐘楼は大正5年の築で、それ以外の建物は関東大震災以降の再建です。
現存する本堂は、昭和10年の再建。

境内には本堂のほか、駈け込みの実例を記録した松ヶ岡日記など縁切りの歴史を伝える資料や寺宝を展示する、松ヶ岡宝蔵もあります。

日本の禅文化を海外に広めた仏教学者・鈴木大拙(すずきだいせつ)、哲学者・西田幾太郎、文芸評論家・小林秀雄、小説家・高見順(たかみじゅん)、日本画家・前田青邨(まえだせいそん)、岩波書店創業者の岩波茂雄など著名人の墓も多いのが特徴。

ちなみに、グレープが昭和50年に発売したアルバム『コミュニケーション』に収録された名曲『縁切寺』(作詞・作曲:さだまさし)は、 「今日鎌倉へ行って来ました」の歌詞の通り、この東慶寺がモチーフ。
鎌倉大仏を起点に源氏山から北鎌倉に歩く「葛原岡・大仏ハイキングコース」は、この曲のヒットもあって昭和50年代には大人気のハイキングコースだったのです。

平成27年公開の映画『駆込み女と駆出し男』(監督・原田眞人、主演・大泉洋)は、井上ひさし『東慶寺花だより』を原案とした映画で、東慶寺が舞台となっています。

東慶寺
東慶寺
名称 東慶寺/とうけいじ
Tokeiji Temple
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内1367
関連HP 東慶寺公式ホームページ
電車・バスで JR北鎌倉駅から徒歩5分
ドライブで 横浜横須賀道路朝比奈ICから約7km
駐車場 なし
問い合わせ 東慶寺 TEL:0467-22-1663/FAX:0467-22-7815
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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