紫式部&『源氏物語』ゆかりの地へ! 【京都編】

紫式部&『源氏物語』ゆかりの地

2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公・紫式部。『源氏物語』、『紫式部日記』の作者としても知られる紫式部ゆかりの地を旅するならば、まずは活躍の地である京都へ。平安時代、大坂(大阪)や兵庫(神戸)がまた田舎だとされた時代の京の都を想像しながら、『源氏物語』の世界を旅しましょう。

雲林院|紫野は紫式部生誕の地という伝承も

所在地:京都府京都市北区紫野雲林院町23
内容:淳和天皇(じゅんなてんのう/在位823年〜833年)、仁明天皇の離宮「紫野院」があった地で、かつては雲林院境内にあった大徳寺塔頭・真珠庵(しんじゅあん/非公開)に「紫式部産湯の井戸」と伝承される井戸があります
紫式部が著した『源氏物語』第10帖の「賢木」に光源氏が藤壺との仲を思い悩み雲林院に参籠し、天台六十巻を読み進めるという描写がありますが、当時の雲林院は天台宗の寺で、最盛期には敷地がおよそ220m四方という巨刹

雲林院

雲林院

京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう=子院)が、雲林院(うんりんいん)。淳和天皇(じゅんなてんのう/在位823年〜833年)、仁明天皇の離宮「紫野院」があった地で、貞観11年(869年)に雲林院に。紫式部は雲林

廬山寺|『源氏物語』を執筆した権中納言・藤原兼輔邸跡

所在地:京都府京都市上京区寺町通広小路上ル扇町
内容:延暦寺中興の祖、元三大師(がんざんだいし)良源が天慶年間(938年~947年)に船岡山の南に開いた与願金剛院が起源で、豊臣秀吉の寺町造営で現在地に移転
現在の寺域は紫式部の曽祖父、権中納言・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)が建てた屋敷跡、つまりは紫式部の住居跡で、『源氏物語』『紫式部日記』はこの地で執筆されたと推測できます

廬山寺

廬山寺

京都府京都市上京区北之辺町、京都御所の東側にある円浄宗の本山が、廬山寺(盧山天台講寺)。延暦寺中興の祖、元三大師(がんざんだいし)良源が天慶年間(938年~947年)に船岡山の南に開いた与願金剛院が起源で、豊臣秀吉の寺町造営で現在地に移転。

源融・河原院跡|光源氏の邸宅「六条院」もモデル、河原院があった!?

所在地:京都府京都市下京区都市町141-11
内容:室町時代初期、貞治年間(1362年〜1367年まで)に完成した『源氏物語』の注釈書『河海抄』(かかいしょう)には、光源氏の邸宅「六条院」もモデルは、同じ六条にあった河原院としていることから、源融は光源氏の有力なモデル候補
六条河原院の敷地は、四町四方の広さがあったと伝えられ、『源氏物語』の主人公・光源氏が住んだ邸宅「六条院」も四町四方と記されているので、可能性は高まります
源融が光源氏のモデルで、邸宅「六条院」が河原院だったとするなら、光源氏と夕顔が一夜を過ごしたのは、この河原院ということに

源融・河原院跡

源融・河原院跡

京都府京都市下京区都市町、鴨川・五条大橋の南東に位置するのが、源融・河原院跡(みなもとのとおるかわらのいんあと)。紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなった源融の邸宅・河原院があった地だとされ、渉成園もその一部という広大な面積を占

勧修寺|『源氏物語』の恋話のモデルとなった宮道弥益邸跡

所在地:京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
内容:醍醐天皇の命により栗栖野にあった宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅が寺となったもの
『源氏物語』の光源氏と明石の御方らの恋の話は、身分格差のあった内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道弥益の娘・宮道列子(みやじ のたまこ)が結ばれた話(鷹狩の際に、雨宿りした宮道弥益の屋敷で出会う)がモデルとされ、紫式部(むらさきしきぶ)は、その子孫ということになります
桜のシーズンなどにあわせて建物内部の特別公開が行なわれていますが、通常は庭園のみ鑑賞が可能

勧修寺

勧修寺

京都府京都市山科区勧修寺(かんしゅうじ)にある真言宗山階派の大本山が、勧修寺(かじゅうじ)。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が母・藤原胤子(ふじわらのいんし)の菩提を弔うために創建。桜のシーズンなどにあわせて建物内部の特別公開が行なわれていま

大原野神社|紫式部が氏神と尊崇した神社

所在地:京都府京都市西京区大原野南春日町1152
内容:桓武天皇の后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が藤原氏の氏神でもある奈良・春日大社の分霊を勧請して創建
藤原氏の王城鎮護、国家鎮護の社として機能し、寛弘2年(1005年)、一条天皇の皇后(中宮)・藤原彰子(ふじわらのしょうし/後一条天皇、後朱雀天皇の生母)の大原野神社への行啓に際しては、父である藤原道長(ふじわらのみちなが)、紫式部(女房と呼ばれた使用人でした)もお供しています
紫式部も大原野神社を氏神と崇め、『源氏物語』二十九帖「行幸」(みゆき)の巻には、大原野へと向かう冷泉帝の華やかで美しい行列の様子が描かれています

大原野神社

大原野神社

京都市西京区大原野にある洛西の名社、大原野神社(おおはらのじんじゃ)。延暦3年(784年)、長岡京遷都にあたり、桓武天皇の后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が藤原氏の氏神でもある奈良・春日大社の分霊を勧請したのが起源。そのため「京春日」(

野宮神社|『源氏物語』にも登場する斎王ゆかりの社

所在地:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町3
内容:平安時代から南北朝時代時代までの660年間に64人の斎王(天皇が新たに即位するごとに天皇の代理で伊勢神宮に派遣された斎宮)が、野宮神社で禊を行ない、伊勢へと派遣された地
『源氏物語』の「賢木の巻」では別れのシーンで登場

野宮神社

野宮神社

京都市右京区嵯峨野にある古社が野宮神社。平安遷都後創建の古社で、神宮(伊勢神宮)の斎王に決まった皇女が、3年間社にこもり、心身を清める精進潔斎をする習わしがあったとされる社です。周囲を野宮竹の林に囲まれ、紫式部作『源氏物語』の舞台としても知

土御門第跡(土御門殿跡)|紫式部も出入りした藤原道長の邸跡

所在地:京都府京都市上京区京都御苑
内容:摂政・太政大臣だった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡で、道長が「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」で知られる有名な「望月の歌」を詠んだのもこの土御門第(土御門殿)
道長の姉である藤原詮子(ふじわらのせんし)や、長女・藤原彰子が一条帝の次男・敦成親王(のちの後一条帝)の邸宅ともなり、彰子が出産を控えて土御門第に退出したとき、これに仕えたのが紫式部で、『紫式部日記』に克明に描写されています

土御門第跡(土御門殿跡)

土御門第跡(土御門殿跡)

現在の京都御苑・仙洞御所の東北部一帯は平安時代の摂政・太政大臣だった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡が土御門第跡(土御門殿跡)。道長が「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」で知られる有名な「望月の歌」を詠んだの

夢浮橋之古蹟碑・紫式部像|『源氏物語』最後を飾る「宇治十帖」の舞台

所在地:京都府宇治市宇治蓮華5-2
内容:「宇治十帖」と通称され、「橋姫」始まり「夢浮橋」で終わる最後の10帖ゆかりの地
紫式部像は、宇治ライオンズクラブが40周年を記念して平成15年に築いたもの
有名な平等院は、『源氏物語』執筆時は、藤原道長の別荘「宇治殿」で、もともとは、光源氏のモデルともいわれる左大臣源融が営んだ別荘です

夢浮橋之古蹟碑・紫式部像

夢浮橋之古蹟碑・紫式部像

京都府宇治市、京都府道7号(京都宇治線)が宇治川をまたぐ宇治橋の西詰にあるのが、夢浮橋之古蹟碑・紫式部像(ゆめのうきはしのこせきひ・むらさきしきぶぞう)。夢浮橋は、『源氏物語』第54帖(最後の巻)、第三部「宇治十帖」の最後、源氏物語のフィナ

紫式部の墓|中世から紫式部の墓所と伝承される地

所在地:京都府京都市北区紫野西御所田町
内容:紫式部は、生年、没年も定かでなく、墓もあくまで伝・紫式部の墓ということに
紫式部の墓の隣には、遣唐副使でもあった小野篁(おののたかむら)の墓があり、室町時代初期、貞治年間(1362年〜1367年まで)に完成した『源氏物語』の注釈書『河海抄』(かかいしょう)には、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と記されており、没後350年ほどを経てはいますが、その記述と墓所の場所は一致

紫式部の墓

紫式部の墓

京都市北区紫野西御所田町、堀川北大路交差点の南、堀川通沿い、島津製作所紫野工場の隣接地にあるのが、紫式部の墓。大河ドラマ『光る君へ』の主人公で、『紫式部日記』、『源氏物語』の作者として知られる紫式部ですが、生年、没年も定かでなく、墓もあくま

紫式部&『源氏物語』ゆかりの地へ! 【京都編】
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紫式部&『源氏物語』ゆかりの地

紫式部&『源氏物語』ゆかりの地へ! 【滋賀編】

滋賀県大津市にある石山寺は、平安時代、宮中の女性たちの観音詣(石山詣)の地。紫式部は、石山寺で『源氏物語』の構想を練ったとされています。また琵琶湖の舟運を含め、越前下向時の道筋でもあり、父・父・藤原為時(ふじわらのためとき)に帯同して旅した

紫式部&『源氏物語』ゆかりの地へ!

紫式部&『源氏物語』ゆかりの地へ! 【福井編】

長徳2年(996年)、紫式部は父・藤原為時に伴って越前国に入国しますが、これが人生で京を離れて暮らした唯一の経験。紫式部が暮らした屋敷のあった場所は定かでありませんが、父・藤原為時が国司として任官した国庁は、越前市武生にあったと推測されてい

 

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