石田さんのルーツを探せ!

家紋の中で一番わかりやすいのが文字紋である。文字紋はその名の通り、文字を母体にしていて、少し前までは、歴史のある三越や伊勢丹、高島屋、大丸といったデパートは文字のマークを使用していた。家紋の文字紋としては、やはり、戦国武将・石田三成オリジナルの家紋「大一大万大吉」を忘れてはなるまい。

ルーツ探しは戦国武将・石田三成の故郷から

関ケ原古戦場に立つ石田三成陣営の幟

それぞれの家が伝える家紋の文字紋では、小原節にも登場する島津氏の「丸に十の字」や村上水軍の「丸に上の字」が有名だが、なんといっても、石田三成の「大一大万大吉」が最も変わった文字紋といえよう。
「大一大万大吉」の家紋は、三成が大願成就の思いをこめて使ったという家紋なのである。

石田三成の出身地は、近江国坂田郡北郷村大字石田、現在の滋賀県長浜市石田町である。
その先祖は桓武平氏三浦氏流石田氏といわれ、相模国大住郡糟屋庄石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)を領したことにより石田氏を称し、その流れに『平家物語』木曾最期、『吾妻鏡』に木曾義仲を討ち取ったと記される石田為久(いしだためひさ)がいる。
小田急線の愛甲石田駅(駅名は厚木市側の愛甲と伊勢原市側の石田を合成)は、実は、石田さんのルーツへの玄関駅となっているのだ。
愛甲石田駅にほど近い円光院(神奈川県伊勢原市石田928)は、石田城の跡で、石田為久の馬洗場、土塁跡などが残されている。
この石田為久も「大一大万大吉」を家紋にしていたので、それを石田三成が取り入れたと、伊勢原の郷土史家は考えている。

石田為久の裔(えい=子孫)と思われる石田三成は秀吉に従って各地に転戦し、九州征伐の兵站(へいたん)奉行、朝鮮出兵の舟奉行、さらに太閣検地などでその手腕を発揮し、豊臣秀吉の五奉行のひとりとなる。
文禄4年(1595年)には近江国・佐和山城主となり19万4000石を与えられた。

豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立した石田三成は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍の総大将として「大一大万大吉」の旗印に掲げて戦うものの、ついに敗れ、「大願成就」はならずに終わっている。
捕らえられた三成は京の六条河原で処刑され、その子孫は津軽に落ち延び、杉山と名を変え、やがて津軽藩の家老を務めたという。

大河ドラマの主人公へと、地元では運動を展開する石田三成、その旧跡は、いずれも観光地化されている。

長浜駅前には「秀吉・三成出逢いの像」が立ち、長浜市石田町のかつての石田屋敷跡は石田会館となっていて石田治部少輔出生地碑や石田三成像が立てられている。
「秀吉・三成出逢いの像」は、当時長浜城主だった羽柴秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶を並々と、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差し出したという「三献の茶」の逸話を元にした像。

石田屋敷跡に隣接する石田氏の氏神の八幡神社(石田神社)には、石田一族と家臣の供養塔が立てられている。
石田三成産湯の井戸址などというものもあるので見逃さないこと。

また、石田三成の城であった佐和山城跡(彦根市佐和山町)には石垣と土塁の一部などが現在も残っている。
もちろん、長浜城跡(長浜市公園町)にも寄って再建天守閣を見学したい。 

SG0306

石田会館(石田屋敷跡・石田三成出生地)

滋賀県長浜市の東部に位置する石田町は、戦国時代末期、豊臣秀吉の五奉行として活躍したといわれる知将・石田三成(いしだみつなり)の出生地。現在は公民館となった石田家の屋敷跡には「石田治部少輔(いしだじぶしょうゆう)出生地」と刻まれた顕彰碑も建っ

石田姓は地名姓なのでルーツは全国に

──その他の石田氏としてはまず、垂仁天皇の皇子・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)の子孫が山城国久世郡石田に住んで石田君を称したという。時代は下って、武蔵国多摩郡石田を発祥とする小野姓横山党の石田氏がいる。土方歳三が生まれた石田村(日野市石田)の石田寺(せきでんじ)には、歳三の墓があり、石田寺から西へ行けば、歳三の生家と資料館が併設されている。

一方、岩代国伊達郡石田(伊達市霊山町石田)を発祥とする藤原姓伊達氏流の石田氏は、伊達氏に仕えて仙台藩の重臣となる。

また、壱岐の石田氏は壱岐国石田郡石田を発祥とする桓武平氏三浦氏族という。

石田城という名称では、長崎県五島市池田町の、別名福江城ともいう石田城がある。
この城は幕末の文久3年(1863)に完成した「日本最後の城」で、かつては、日本でも珍しい海城であったという。二の丸の位置に五島氏庭園が現在も残っていて、国指定名勝に指定されている。
本丸跡の城山神社の宮司は、第35代五島家当主・五島典昭さんで、目下日本で唯一、個人所有の城主となっている。

福江城(石田城)

福江城(石田城)

長崎県五島市池田町にある幕末に築かれた福江藩(五島藩)の城が福江城(石田城)。福江藩10代藩主・五島盛成(ごとうもりあきら)の時、異国船の来襲に備え、嘉永2年(1849年)から15年もの歳月をかけ、幕末の文久3年(1863年)にようやく完成

神社としては、大阪府東大阪市岩田町に石田(いわた)神社があり、京都府八幡市上津屋里垣内や福井県鯖江市石田上町に石田神社がある。

石田姓は、石の多い田、あるいは岩盤の田という地名姓。
つまりは、全国各地の稲作地帯にルーツが散らばっています。

石田姓は京都府(大姓35位)から富山(37位)など北陸地方にかけて多い。
また山口では38位となっている。

代表家紋は、並び矢。石田三成は「大一大万大吉」。他に九曜、沢瀉、柏、三つ目など。

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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