上田さんのルーツを探せ!

大姓60位の上田さんは、全国で25万人ほどの暮らしていて、シェアは0.20%ほど。上田さんは田を上田・中田・下田と区別したときの「上の方の田」とか、水田の質の「上質の田」いう意味から生まれた地形姓。上田さんの多くが地名由来で、とくに、信濃国上田という地名をルーツとした上田さんが主流となっています。

ルーツの代表格、まずは長野県上田市へ

清和源氏小笠原氏流の、信濃上田氏の起こりは、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ=源義光)の後裔・小笠原氏の一族が信濃国小県郡(ちいさがたぐん)上田荘に住み、地名により上田を称したとも、茶道で知られる上田宗箇(うえだそうこ=上田重安)の10代の祖・武田七郎丸盛義が小笠原氏を名乗り、上田荘に住んだことに始まるともいわれています。

いずれにしろ、まずは信濃国上田荘(長野県上田市)を訪ねてみましょう。

鎌倉時代に荘園制度を背景に「上田荘」と呼ばれていた長野県上田市は、武家屋敷の冠木門(かぶらぎもん)、長土塀、格子戸が並ぶ真田氏十万石の城下町。
天正11年(1583年)、真田昌幸が築城した上田城(上田市大手)は、徳川の軍勢を二度も撃退した歴戦の名城として知られ、旧二の丸が上田城跡公園になっています。

昭和期に、移築されていた本丸の北櫓と南櫓2棟がもともとの位置に復元され、されに平成になって東虎口櫓門と袖塀などが復元されています。

この信濃国の上田氏は後、尾張国星ヶ崎(名古屋市南区星崎町)に移って丹羽長秀(にわながひで)に仕え、江戸時代は広島藩の家老になった家と、5000石の旗本になった家とに分かれています。
名古屋に多い上田さんは、この末裔と推測できます。

上田城(上田城跡公園)

1583(天正11)年、真田昌幸が築城した上田城。現在の城郭は真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政によって江戸時代初期に復興されたもの。城跡は現在、ケヤキ並木が囲む「上田城跡公園」として整備されています。関ヶ原合戦の際に、徳川秀忠率いる大軍

新潟県南魚沼市にも上田さんのルーツが

一方、越後国南部上田荘(新潟県南魚沼市長崎)からも著名な上田氏が生まれています。

桓武平氏良文流の上田長尾氏は、南北朝時代から上杉憲顕(うえすぎのりあき)の家臣として南魚沼上田荘の支配を委ねられ、戦国時代に長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁にあたる長尾政景は、坂戸城(南魚沼市六日町坂戸)に本拠を置いて乱世を生き抜いていますが、長尾政景の死後、上田長尾家は断絶に。

しかし、長尾政景の子・長尾顕景(ながおあきかげ)は上杉謙信の養子となって上杉景勝を名乗り、米沢藩の初代藩主に。
その家系は長尾上杉氏(米沢上杉家)として長く続いています。

上田長尾氏の家臣団は、戦国時代に「上田衆」と呼ばれて恐れられていましたが、その上田衆屋敷跡は、南魚沼市樺野沢に。
上田衆屋敷跡周辺には古町、桜町などの城下町、上田橋、上田山大儀寺跡などが残され、往時の上田荘の中心であったことが偲ばれます。

上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって上杉景勝(長尾政景実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動「御館の乱」(おたてのらん)では北条軍侵攻の最前基地となっています。

上田口攻防の拠点となった上田城(樺沢城)は、標高304mの山上にある山城で、新潟県の史跡。
越後府中へ通じる栃窪峠、大沢峠を背後に控え、関東の玄関口である三国街道、清水街道の分岐点をおさえる要衝に位置し、眼下に上田山大儀寺跡など往時の上田荘を一望にできます。

慶長3年(1598年)上杉氏の会津転封に伴い廃城となっていますが、山全体を3重、4重に鉢巻状に巡る空堀や土塁は、いかにこの場所が重要な拠点だったかを後世に伝えています。

坂戸城の城下は上田衆発祥の地

新潟県南魚沼市の坂戸山の山頂(標高634m)には、坂戸城があり、この城も上田長尾氏ゆかりの城。
坂戸山の山麓には、長尾政景墓所と上杉景勝・直江兼続の生誕碑があり、平時の居館跡の遺構も残されています。

坂戸城には「上田五十騎発祥之地」という碑も立っていますが、意味を理解できる人は少ないはず。
上田長尾氏の家臣団が、長尾政景の死後、上杉謙信の家臣となり、上杉謙信軍最強として恐れられる存在になるのが上田五十騎と称される「上田衆」。
御館の乱が起きると、上杉景勝はそれまで上杉景虎がいた春日山城を占拠します、その入城の際に城門を守ったのが精鋭の上田衆だったのです。

そんな上田衆の中でもよく知られているのが、春日山入城の際に選ばれた50人の精鋭たち、それが「上田五十騎衆」ということに。
平時には魚沼で米を作る地主で、いざというときには武器を持って最前線に立ったという半農半士の武士団(雪深い越後は尾張などと違って兵農分離が遅れ、謙信も天下統一には届きませんでした)。

平成21年放送のNHK大河ドラマ『天地人』でおなじみの上杉景勝と直江兼続が、ともに幼少期を過ごしたのが、この上田庄だったのです。

坂戸城跡

坂戸城跡

三国街道と清水街道の分岐点で、往時には「上田船道」と呼ばれる水運の終点だったという交通の要衝が南魚沼市の六日町。古くは上田庄と呼ばれ、軍事、交通上の重要な拠点だったのです。町の東に聳える坂戸山(633.7m)には、坂戸城が築かれ、越後と江戸

坂戸城内堀跡

坂戸城内堀跡

山全体が天然の要塞だった坂戸山山頂を本丸とした山城の坂戸城(新潟県南魚沼市)。その麓には、平時に領主が住んでいた住居跡・御館(おたて)、家臣団の屋敷跡や石垣跡などが残されていますが、それらの屋敷群を取り囲むように巡らされているのが、坂戸城内

関東の上田さんは武蔵松山城へ!

武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)の上田氏のことも忘れてはなりません。

武蔵七党のうち西党の裔(えい=子孫)とされている松山城主の上田氏は、扇谷上杉氏の家老を務めた武蔵北部の有力武家で、後に小田原北条氏に従っています。

室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって本格的に築城されたとされる武蔵松山城は、比企城館跡群として国の史跡に。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、武蔵松山城主・上田憲定(うえだのりさだ)は北条氏とともに小田原城に籠城。
松山城も前田利家、上杉景勝、真田昌幸、直江兼続らの大軍に取り囲まれて落城、上田憲定も没落したと推測されます。

上田憲定の消息は定かでありませんが、系図には慶長2年(1597年)に没したと記されているので、なんとか生き延び、故郷へ戻ったのかもしれません。

埼玉県秩父郡東秩父村の浄蓮寺は上田氏の菩提寺で、城主・上田氏一族の墓がひっそりと並んでいます。
上田憲定も、小田原から浄蓮寺に戻ったとする説もあります。

上田さんは近畿地方に多いのが特長

ほかの上田氏としては、紀伊国伊都郡(いとぐん)上田(現・和歌山県橋本市上田)を発祥とする古代豪族・文忌寸(ふみのいみき)上田氏族が発祥、また同じ紀伊からは、紀伊国伊都郡上田より発祥した橘姓(たちばなせい)上田氏も出ています。

さらに、 河内摂津の上田氏、大和の上田氏、清和源氏島ヶ原一族の上田氏、伊賀の上田氏、そのほか丹羽氏流、佐々木氏流、島津氏流の上田氏などや、忍者の甲賀流上田氏など、上質の田」というめでたいイメージの名前だけに、ルーツも全国に散らばっています。

上田という名の付く寺社も、鳥取県西伯郡大山町の上田神社(旧上田村の氏神)、岐阜県加茂郡白川町にある慶長14年(1609年)創建の上田神社、栃木県下都賀郡壬生町上田の上田寺(じょうでんじ)など。
壬生町上田は「かみだ」で、寺は「じょうでんじ」ですが、上田城(かみだじょう)の城跡もあり、実は藩政時代に下野上田藩(しもつけかみだはん)があった場所です(ただし、藩主・西郷寿員の職務怠慢で2年足らずで廃藩)。

上田さんは奈良県で大姓6位、京都府で18位と近畿地方に多いのが特長。

家紋は矢筈(やはず)、上田桐、三つ盛り亀甲、九枚笹、藤に十文字、釘抜、花菱、蔦、菊水、笹竜胆(ささりんどう)。
清和源氏小笠原氏流は釘貫・三階菱、桓武平氏良文流は九曜巴(くようともえ)。
家紋からルーツのヒントになるかもしれません。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

上田さんのルーツを探せ!
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