上田さんのルーツを探せ!

上田城

上田という地名は、まさに地名姓の典型。田を上田・中田・下田と区別したときの「上の方の田」とか、水田の質の「上質の田」いう意味から生まれた地名姓。上田さんの多くこの地名を負い、とくに、信濃国上田という地名をルーツとした上田氏が主流となっている。というわけで、まずは信州上田へと旅をしよう。

まずは長野県上田市へ

清和源氏小笠原氏流の、信濃上田氏の起こりは、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ=源義光)の後裔・小笠原氏の一族が信濃国小県郡(ちいさがたぐん)上田荘に住み、地名により上田を称したとも、茶道で知られる上田宗箇(うえだそうこ=上田重安)の10代の祖・武田七郎丸盛義が小笠原氏を名乗り、上田荘に住んだことに始まるともいう。
いずれにしろ、まずは信濃国上田荘(長野県上田市)を訪れてみよう。

鎌倉時代には荘園制度を背景に「上田荘」と呼ばれていた上田市は、武家屋敷の冠木門(かぶらぎもん)、長土塀、格子戸が並ぶ真田氏十万石の城下町である。
天正11年(1583年)、真田昌幸が築城した上田城(上田市大手)は、徳川の軍勢を二度も撃退した歴戦の名城として知られ、旧二の丸内が上田城跡公園になっている。
昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、されに平成になって櫓門や塀などが復元されている。

この信濃国の上田氏は後、尾張国星ヶ崎(名古屋市南区星崎町)に移って丹羽長秀(にわながひで)に仕え、江戸時代は広島藩の家老になった家と、5000石の旗本になった家とに分かれた。
名古屋に多い上田さんは、この末裔と考えられる。

上田城(上田城跡公園)

1583(天正11)年、真田昌幸が築城した上田城。現在の城郭は真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政によって江戸時代初期に復興されたもの。城跡は現在、ケヤキ並木が囲む「上田城跡公園」として整備されています。関ヶ原合戦の際に、徳川秀忠率いる大軍

新潟県南魚沼市にも上田さんのルーツが

一方、越後国南部上田荘(新潟県南魚沼市長崎)からも著名な上田氏が生まれている。
桓武平氏良文流の上田長尾氏は、南北朝時代から上杉憲顕の家臣として南魚沼上田荘の支配を委ねられていた。
長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁にあたる長尾政景は、坂戸城(南魚沼市六日町坂戸)に本拠を置いて戦国時代を生き抜くが、政景の死後、上田長尾家は断絶となる。
だが、政景の子・顕景は上杉謙信の養子となって上杉景勝を名乗り、その家系は長尾上杉氏(米沢上杉家)として長く続いていった。

戦国時代には 「上田衆」と呼ばれて恐れられていた、上田長尾氏の家臣団の屋敷跡である上田衆屋敷跡(南魚沼市樺野沢)に行ってみたい。
周辺には古町、桜町などの城下町、上田橋、上田山大儀寺跡などが残っていて、往時の上田荘の中心であったことが偲ばれる。
上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって上杉景勝(長尾政景実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動「御館の乱」(おたてのらん)では北条軍侵攻の最前基地となり、上田口攻防の拠点となった上田城(樺沢城)は、標高304mの山上に。
越後府中へ通じる栃窪峠、大沢峠を背後に控え、関東の玄関口である三国街道、清水街道の分岐点をおさえる要衝に位置し、眼下に上田山大儀寺跡など往時の上田荘を一望にする。

また、坂戸城があった坂戸山の山麓には、長尾政景墓所と上杉景勝・直江兼続の生誕碑が建っている。
坂戸城には「上田五十騎発祥之地」という碑もあるが、意味を理解できる人は少ないだろう。
上田長尾氏の家臣団が、長尾政景の死後謙信の家臣となり、上杉謙信軍最強として恐れられる存在になるのが「上田衆」。
御館の乱が起きると、上杉景勝はそれまで上杉景虎がいた春日山城を占拠したが、その入城の際に城門を守ったのが上田衆であった。
そうした上田衆の中でもよく知られているのが、春日山入城の際に選ばれた50人の精鋭たち、それが「上田五十騎衆」なのである。
平時には魚沼で米を作る地主で、いざというときには武器を持って最前線に立った(雪深い越後は兵農分離が遅れ、謙信も天下統一には届かなかった)。
そして、NHK大河ドラマ『天下人』登場でおなじみの上杉景勝と直江兼続が、ともに幼少期を過ごしたのが、この上田庄でもあった。

坂戸城跡

坂戸城跡

三国街道と清水街道の分岐点で、往時には「上田船道」と呼ばれる水運の終点だったという交通の要衝が南魚沼市の六日町。古くは上田庄と呼ばれ、軍事、交通上の重要な拠点だったのです。町の東に聳える坂戸山(633.7m)には、坂戸城が築かれ、越後と江戸

坂戸城内堀跡

坂戸城内堀跡

山全体が天然の要塞だった坂戸山山頂を本丸とした山城の坂戸城(新潟県南魚沼市)。その麓には、平時に領主が住んでいた住居跡・御館(おたて)、家臣団の屋敷跡や石垣跡などが残されていますが、それらの屋敷群を取り囲むように巡らされているのが、坂戸城内

関東の上田さんは武蔵松山城へ!

──武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)の上田氏のことも忘れてはならない。武蔵七党のうち西党の裔(えい=子孫)とされている松山城主の上田氏は、扇谷上杉氏の家老を勤めた武蔵北部の有力武家で、後に小田原北条氏に従った。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の関東侵入により後北条氏とともに滅亡したとされている。
埼玉県秩父郡東秩父村の浄蓮寺は上田氏の菩提寺で、城主・上田氏一族の墓がひっそりと並んでいる。

他の上田氏としては、紀伊国伊都郡(いとぐん)上田(現・和歌山県橋本市上田)を発祥とする古代豪族の文忌寸(ふみのいみき)上田氏族、また同じ紀伊には、紀伊国伊都郡上田より発祥した橘姓(たちばなせい)上田氏も出ている。
さらに、 河内摂津の上田氏、大和の上田氏、清和源氏島ヶ原一族の上田氏、伊賀の上田氏、そのほか丹羽氏流、佐々木氏流、島津氏流の上田氏などや、忍者の甲賀流上田氏など。

上田という名称からは、鳥取県西伯郡大山町の上田神社、岐阜県加茂郡白川町の上田神社、栃木県下都賀郡壬生町の上田寺など。

上田姓は西日本、とくに近畿地方(奈良で大姓6位。京都で18位)に多い。

家紋は矢筈(やはず)、上田桐、三つ盛り亀甲、九枚笹、藤に十文字、釘抜、花菱、蔦、菊水、笹竜胆(ささりんどう)。
清和源氏小笠原氏流は釘貫・三階菱、桓武平氏良文流は九曜巴。

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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