和田さんのルーツを探せ!

日本の捕鯨は和田一族によって始められた。古来から、熊野灘沿岸は鯨の回遊ルートで、慶長11年(1606年)、太地浦(現・和歌山県東牟婁郡太地町)の豪族・和田一族の忠兵衛頼元が太地浦を基地として鯨方を組織し、突捕漁法による捕鯨を始めた。これが日本における捕鯨事業の元祖である。この和田一族のルーツは、三浦半島(神奈川県)にあるのだ。

和田さんのルーツは、三浦半島の三浦市にあり!

今に伝わる和田氏の始まりは、三浦半島を中心に勢力を伸ばしていた桓武平氏・三浦氏の一族である杉本義宗(すぎもとよしむね/平安時代後期の武将・三浦義明の嫡男)の子・杉本義盛が、領地である相模国三浦郡和田に住んで、和田義盛(わだよしもり)と称したことによるという。
和田義盛は源頼朝の挙兵に従い、また源範頼(みなもとののりより)の目付として多くの戦功を挙げ、鎌倉幕府が開かれると三浦一族の中核として初代侍所別当となる。

その後、和田義盛は源範頼に従って木曾義仲を討ち、続いて源義経に属して平家を壇ノ浦に滅ぼし、さらには、奥州の藤原国衛(ふじわらのくにひら)を破るという活躍ぶりで、和田義盛の領地は陸奥国遠田・名取両郡を始め、出羽、阿波、讃岐にまで及んだ。
しかし、源頼朝の死後、和田義盛は北条氏に対して戦いを挑んだ和田合戦で、同族の三浦氏の裏切りにあい討死、一族はほぼ壊滅する。
和田義盛の子・和田義信は上野国に逃れたとも、阿波から熊野に逃れ、その子孫は太地へ移住したともいわれている。
つまり、太地浦の捕鯨で活躍した和田一族も三浦半島がルーツということに。

和田氏のうち、義盛の甥である和田重茂は北条氏方に付いたため、その子孫は「三浦和田」と称して、その後中世の越後などに勢力を築いた。

和田さんのルーツとなる和田義盛の故郷は、神奈川県三浦市初声町和田。
和田義盛の屋敷があったとされる場所(大泉寺、安楽寺を含めた一帯)で、ご丁寧に「和田義盛旧里碑」が立っている。

その西には、和田城跡もあり、間違いなく、ここが重要な和田さんのルーツとなる。
和田城跡の案内板によれば、義盛は16歳の秋、父の死をきっかけにに鎌倉の杉本城から和田に移り、このあたりに居館を築き、和田を名乗ったとある。
さらに和田館には木曽義仲の妾・巴御前が預けられて余生を送ったとも。
国道134号の和田交差点を目標に、アプローチを。

高崎も和田さんには重要な地

──和田は古くは「にきた」、「にぎた」と読み、神霊の加護で富み栄える「田」の意味。
和泉国大鳥郡和田(大阪府堺市南区和田)を発祥とする紀直(あたい)族の和田首(おびと)や、河内国を発祥とする楠木氏と同族の橘氏流和田氏がいる。
また近江国からは、近江国甲賀郡和田を発祥とする清和源氏善積(よしづみ)氏流、近江国神崎郡和田(東近江市五個荘和田町)を発祥とする佐々木氏流、さらに同国には清和源氏高屋氏流の和田氏もいる。他に、熊野本宮社家、美濃国土岐氏流、藤原秀郷流、さらに千葉氏、奥平氏、小笠原氏、佐竹氏、高木氏、大江氏流などの和田氏がいる。
鳥取藩家老を務めた一族もある。

まずは、和田義盛の流れという上野和田氏の、かつては和田城と呼ばれていた高崎城(高崎市高松町)へ出掛けてみよう。
高崎城の前身は、室町時代に和田義信が築いた和田城。
関東管領上杉憲実に従い、正長元年(1428年)に和田城を築城したとされている。
戦国時代になって永禄4年(1561年)、城主・和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄に与し、その子、和田信業は、北条氏に属したため、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、豊臣軍の攻撃を受けて和田城は落城している。
今の城跡は徳川家康の関東転封に伴い、家康の名で井伊直政は、慶長2年(1597年)、和田城の城地に近世城郭を築いたもの。
高崎城跡には今も乾櫓が残り、通用門として使われていた東門が移築復元され、お堀の周辺は桜の名所の高崎城址公園となっている。

また、関東では八王子市高月町にある高月城や滝山城、八王子城も和田氏との関係が深い。

高崎城址

群馬県高崎市街の中心部・高松町にあり、土塁や堀、復元された乾櫓(いぬいやぐら)と東門などが、往時をしのばせているのが高崎城址。前身は室町時代に和田義信が築いた和田城(和田さんのルーツにも)ですが、廃城になり荒廃。現在の高崎城址は、井伊直政築

岸和田は「岸の和田さん」が名の由来!

関西で重要なのは岸和田で、岸和田市の和田城跡には「和田氏居城伝説地」の碑が立っている。
和田氏の居館(岸和田古城)のあった場所は「和田氏居城伝説地」といわれ、現在の岸和田城跡の東側400m、岸和田駅の南側一帯、照日山(てるひやま=現・野田町1丁目)あたり。

実は、この岸和田、建武元年(1334年)、楠正成(くすのきまさしげ)の一族・和田高家(にぎたたかいえ=楠木正季の三男、楠木正成の甥)が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、岸和田の地名の起こりになったといわれているのだ。

岸和田城

岸和田城

建武元年(1334年)、楠正成(くすのきまさしげ)が和田高家(にぎたたかいえ=楠木正季の三男、楠木正成の甥)に命じ、岸と呼ばれていた地に城を築いたのが岸和田城の始まり。和田氏はこの地を根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の

中山道の和田峠(黒曜石の産地として有名)の麓、信濃国小県郡和田村(中山道・和田宿/現・長野県小県郡長和町和田)にも和田さんは多く、建暦3年(1213年)に鎌倉・由比ヶ浜の和田合戦で討ち死にした和田義盛(わだよしもり)の末裔が住むと伝えられている。
それが証拠に、長和町和田の八幡社の祭神は、和田義盛だという(『木曽名勝図会』による)。
和田峠にはかつて和田義盛刀石があり、それが現在下諏訪の禅寺・慈雲寺に移されている。

史実では、由比ヶ浜の戦いで敗れ、和田一族は全滅とあり、和田一族戦没碑が立つが、一族のうちで脱出し、鎌倉街道を塩田平経由で和田村へと落ち延びたのかもしれない。

神社としては、神戸市兵庫区に和田神社があり、大津市木下町の和田神社、松本市の和田神社、新潟市や米子市にも和田神社がある。

寺は、篠山市今田町に丹波篠山の古刹・和田寺(わでんじ)がある。
楠木氏の一族であった和田孫三郎正綱の菩提寺の安明寺(大阪市松原市天美北)には、楠木・和田氏の菊水の紋を刻んだ蟇股を持つ門が建つ。

和田姓は、関西から四国にかけて多く、高知で大姓16位、和歌山で20位である。

家紋は、三浦氏族は三つ引両や七曜、上野和田氏は三つ引両に檜扇 。
穂積氏流は横木瓜に左巴、裏菊、輪。橘氏流は花橘や菊。
他に月星、菱唐草、丸に隅立四つ目など。

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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