天智6年(667年)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が飛鳥の地から近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)に遷都した都が近江大津宮(おうみおおつのみや)。長らく、その場所は不明でしたが、昭和49年の発掘調査により大津市錦織の住宅地(錦織遺跡)で大津宮の跡が発見され、近江大津宮錦織遺跡として国の史跡になっています。
白村江の戦いでの敗戦も背景にあって内陸の近江国に遷都
天智2年(663年)、日本は、百済(くだら)を救援するため朝鮮半島へ出兵しますが白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗。
その後、唐の日本侵略に怯える緊迫した国際情勢となったため、北九州と瀬戸内海に朝鮮式の山城を築き、さらには飛鳥から、内陸の近江への遷都が行なわれたのです。
中大兄皇子は、近江大津宮で天智天皇9年(670年)に即位して天智天皇(てんじてんのう)となりますが、天智天皇10年9月(671年10月)には病に倒れ、天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、近江大津宮で崩御しています。
天智天皇10年(671年)4月25日に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたことがわかっており、西暦に直した6月10日が時の記念日となっています。
天智天皇は大友皇子に皇位を継がせたかったのですが、天武天皇元年6月24日(672年7月24日)、大海人皇子(おおあまのおうじ)がそれを阻止するために立ち上がった壬申の乱が勃発、7月22日(8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗。
7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位し、近江大津宮は廃棄されています。
近江大津宮は、現在までに内裏正殿、内裏南門、回廊、塀、倉、石敷き溝などの遺構が発掘されていますが周辺が住宅地になっているため、発掘調査が行なわれた場所から順次、公有化と遺跡の指定が行なわれています。
現在、公有化して公園となっているのは、住宅地の中に点在している状況です。
大津市歴史博物館に行けば、大津宮中枢部建物復原模型が展示され、わずか5年余りの歴史だった近江大津京に関する詳細が解説されています。
大津宮跡の周辺には穴太廃寺(あのうはいじ)、崇福寺跡(すうふくじあと)、南滋賀廃寺(みなみしがはいじ)、さらには園城寺の前身寺院という4つの古代寺院が大津宮をとり囲むような形で交通の要衝に配置されていたこともわかっています。
近江大津宮(錦織遺跡) | |
名称 | 近江大津宮(錦織遺跡)/おうみおおつのみや(にしこおりいせき) |
所在地 | 滋賀県大津市錦織1・2丁目 |
電車・バスで | 京阪電鉄近江神宮前駅から徒歩2分 |
ドライブで | 名神高速道路大津ICから約5.5km |
駐車場 | なし/近江神宮参拝の場合は駐車場利用可能 |
問い合わせ | 大津市歴史博物館 TEL:077-521-2100 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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