山口県下関市の東行庵境内にある高杉晋作顕彰碑。明治44年5月20日、井上馨によって除幕されています。撰文は伊藤博文で、杉孫七郎が揮毫しています。
高杉晋作顕彰碑 碑文
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。
動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。
周囲の者は、ただただ驚き、ぼう然とするばかりで、
敢えて正視する者すらいない。
これこそ我らが、東行高杉君ではないか。
君は諱を春風、字を暢夫、通称を晋作、後姓名を代えて谷潜蔵と曰う。東行はその号なり。系は武田小左衛門春時に出づ。春時は天文中備後、高杉城主たり。因って氏たり。子孫は世に毛利氏に仕う。
君は諱(いみな)を春風、字(あざな)を暢夫、通称を晋作と言い、後に改名して谷潜蔵と名のった。東行は号(ごう)である。その家系は武田小左衛門春時にまでさかのぼる。春時が天文年間に備後国・高杉城の城主だったことから、高杉を姓とし、その子孫は代々、毛利氏に仕えた。
考(こう)の諱は春樹、妣(ひ)は大西氏。天保十年八月二十日を以って長門萩に生る。幼にしててきとう大志あり。眼光は炯炯として才識人に絶す。
父の諱は春樹、母は大西氏。
天保十年八月二十日に長門国・萩に生まれた。幼い頃から他人に従うことをせず、大志を胸に、我が道を進んだ。その眼は強く輝き、その才識は他人の追随を許さなかった。
初め藩学明倫館に入り、年十九にして吉田松陰に師事、松陰は深くこれを偉として久坂実甫とならび称す。次いで東遊して昌平學に入り、また佐久間象山を信濃に、横井小楠を越前に訪い、学識ますます進む。
初めに藩校の明倫館に入り、十九歳の時に吉田松陰に師事した。松陰は君に深く心酔し久坂実甫と並び称した。次いで東遊して昌平學に入り、また、佐久間象山を信濃に、横井小楠を越前に訪ね、君の学識はますます進んだ。
文久元年、藩公朝幕の間を周旋す。時に君は世子の近侍たり。周旋のことをおもうに藩国に利あらずと。すなわち将になす有らんとす。二年、公、君を上海に遊び海外の事情を探らしめんとす。居ること数ヶ月にして還る。則ち世子は勅を奉じて江戸にあり、周旋すこぶる力(つと)む。君当路にその不可なるを以って説くも聴かれず。君憂憤し、一日切に世子を諌め、直に藩邸を脱す。
文久元年、藩公は朝廷と幕府の間でしきりに周旋を行なった。その頃、君は世子(世継ぎ)の側近だったが、周旋を「藩に利あらず」とし、なすべきことは他にあると主張した。文久ニ年、藩公は君を上海に派遣し海外事情を探らせようとした。滞在すること数カ月。帰国してみると、世子は勅命を奉じて江戸にあり、周旋に尽力していた。君は当局にそれを不可として説いたが聞き入れられず、憂憤のあまり、一日、切に世子を諌め、藩邸を飛び出した。
すでにして勅使三条中納言、姉小路少将江戸に至り、幕府に攘夷の勅 を奉ぜしむ。幕議依違して決せず。君同志と謀り、まさに外人を襲殺して以って事端を啓(ひら)かんとす。世子諭してこれを止むるも君等遂に御殿山外館を火(や)く。世子君を京師に召す。故あり髪をきって東行と号す。
勅使の三条中納言と姉小路少将が江戸に至り、幕府に攘夷の勅命を伝えたが、幕府の態度は優柔不断で、なかなか攘夷を決することができない。君は同志らと謀って外国人を襲撃し事端を開こうとした。世子は引き止めたが、君たちは遂に御殿山の外国公使館を焼き打ちした。その後、世子は君を京都に呼び寄せ、君は訳あって剃髪し東行と号した。
三年春、車駕賀茂社に詣す。将軍家茂列候を率いてこ従す。既にして将軍まさににわかに東帰せんとす。君謂う「将軍一たび挙趾すればすなわち大事去らん」と。すなわち同志と鷹司関白に謁し、その不可なるを陳ぶ。朝議これを納れる。未だいくばくもなく国に還りへい居して出でず。六月、藩公勅を奉じ外艦を馬関において撃つや、君を起こして防御の事を任す。
文久三年春、天皇の鳳輦が賀茂神社に参詣し、将軍家茂は諸候を率いてこれに付き従った。将軍が急に江戸へ戻ろうとした時、君は「将軍がひとたび行動を起こせば、天下の大事が去ることになる」と言い、同志らと鷹司関白に謁見し、将軍を江戸へ帰してはならないと述べた。朝議は君の言を受け入れたが、それからいくらも経たないうちに、君は国へ戻り、隠棲してしまった。文久三年六月、藩公は勅命に従い、外国船を馬関で攻撃し、君に防御を任せた。
君、士民の勇壮なる者を募り奇兵隊を編む。八月、朝議俄に変じ、三条中納言等の官をうばい、藩公父子の入京を停す。士民憤慨す。遊撃軍総督来島又兵衛、将に兵を率いて闕下(けっか)にいたらんとす。君、公命をふくみてこれを諭せども聴かず。君深くこれをなげき、即日亡命し入京す、藩その罪を論じて獄に下す。
君は武士や民衆の中から勇壮なる者を募り奇兵隊を結成した。
八月に朝議が急変し、三条中納言らの官職を奪い、藩公父子の入京を禁じた。士民は憤慨し、遊撃軍総督の来島又兵衛は兵を率いて御所に迫ろうとした。君は藩公の命をうけ、来島を諭したが来島は聞き入れない。君はこのことを深く歎き、その日のうちに亡命して京都へ走った。藩はその罪を鳴らし君を投獄した。
元治元年八月英仏米蘭の四国、艦隊をつらね馬関を侵す。公また君を起て政務に参ぜしむ。我軍利あらず。すなわち君を以って講和の使となし、止戦講和の約をむすぶ。余等もまた参ず。
元治元年八月、英仏米蘭の4か国が艦隊を連ねて馬関を攻撃した。藩公は、またもや君を呼び寄せ政務に参加させた。我が藩の形勢ははなはだ不利であった。そこで君を講和の使者とし止戦条約を結んだ。条約締結には我々も参加した。
これより先、士民冤を京師に訴えて皆省みず。 ついに禁門の変有り。幕府問罪の師を興し我が国境にせまる。藩士の俗論を唱うるもの争いて起こり、公を萩に擁し、政柄を掌握して、専ら恭順を主とす。正党は皆罪を蒙る。君慨然として国論を回復するの志あり。機を見て遁れ山口に潜入するも捕吏追躡(ついじょう)す。すなわち航海して筑前に走る。
これより先、萩の士民は冤罪を京都で晴らそうとして猪突猛進し、ついに禁門の変が勃発した。幕府の征長軍が我が藩の国境に迫ると、藩士の中で俗論を唱える者たちが次々と台頭し、藩公を萩に擁し政権を掌握して、幕府へ恭順することを主張した。これにより、正義派の者たちは皆罪人となった。君は憂憤し、国論を回復することを自らに誓い、機を見て逃れ山口へ潜入したが、捕吏の追跡が執拗なため、海を渡って筑前に走った。
奇兵の諸隊、しばしば上書して事を論じて納れられず。俗党ついに三老臣四参謀を斬って幕府に謝罪す。君は事の急なるを聞き、また長府に帰り、まさに諸隊を率い俗党を討たんとす。隊士等以って時機尚早となし未だことごとく応ぜず。君余等と謀り、わずか二隊の兵を以って発し、急に馬関伊崎の官廨(かんかい)を囲み姦吏を逐う。
奇兵の諸隊はしばしば上書して事を論じたが受け入れられなかった。俗論党はついに、三家老、四参謀を斬って幕府に謝罪した。君は事態が切迫していることを知り、再び長府へ戻り、諸隊を率いて俗論党を討とうとしたが、隊士たちは時期尚早として応じようとしない。君は我々と謀り、わずか二隊の兵を持って挙兵し、馬関伊崎の会所を包囲して、姦吏を追い払った。
其の翌、諸隊また陣を伊佐に進む。俗党驚駭し、また正士七人を殺す。君大いに怒り、兵を進め伊崎官廨を襲てこれに拠り、討姦の檄を国内に伝う。実に慶応元年正月二日なり。ここにおいて俗党、兵を発し諸隊を撃つ。諸隊絵堂大田にむかえ戦う。皆捷つ。君往きて之に会い、赤村の敵を夜襲し、これを破る。転じて山口に入り、三道に兵を分ちて萩に向かう。
その翌日、諸隊は陣を伊佐に進めた。俗論党は驚愕し、獄につながれていた正義派の士・七名を処刑した。君は大いに怒り、兵を進め、伊崎の会所を襲ってこれを占拠し、俗論派を討つとの檄文を国内に発した。実に慶応元年正月二日のことである。ここにおいて、俗論党は兵を発し諸隊を攻撃した。諸隊は絵堂大田で激戦を展開し勝利した。君は出向いて行って諸隊と合流し、赤村にいる敵を夜襲してこれを破った。転じて山口に入り、三道に兵を分け、萩を目指した。
藩士の俗党にくみせざるもの、上書して当路をしりぞけ、以って国難を靖んぜんことを請う。公これを納れ、諸隊に告諭す 。諸隊命を聴き、藩論始めて一に帰す。君は諸隊を部署して、以って東兵に備え、しこうしてまさに余を伴い欧州に遊び、その形勢を察せんとするも、事を以って果さず。
俗論党に組しない藩士らが藩公に上書し、俗論党を退け事態を収拾するよう願い出た。藩公はこの意見をいれ、諸隊に告げた。諸隊は藩命を聞き入れ、藩論はようやく1つになった。君は幕府軍に備え諸隊を配置した後、私を伴って欧州に赴き、その形勢を探ろうとしたが、果たせなかった。
五月、土佐の坂本龍馬、馬関に来り。桂小五郎に見え、薩長連合の事を説く。君、余等とその議に賛し、かつ曰く、「今、東軍まさに大挙来攻せんとす。よろしく、峩艦利器を外国に購い、以ってこれに備うべし。しかれども其の事、薩藩の名を借るにあらざればすなわち能わざるなり」と。余、井上聞多と長崎にいたり、薩の老臣小松帯刀とはかり、銃艦を購入す。桂、また命を奉じて京に入り、西郷吉之助等と協議し、薩長連合すなわち成る。
五月、土佐の坂本龍馬が馬関へ来て桂小五郎と会見し、薩長連合の必要性を説いた。君は我々とその議に賛成し「幕府の軍勢が大挙して攻めて来ようとしており、我々は軍艦や武器を外国から購入して、これに備えなくてはならない。とは言え、薩摩藩の名を借りなければどうにもならない」と述べた。私は井上聞多と共に長崎へ赴き、薩摩藩の家老・小松帯刀と話し合い、銃と軍艦を購入した。桂は命を受けて京都に入り、西郷吉之助らと協議して、薩長連合を結んだ。
二年春、君、余と長崎に赴き、尋(つ)いでまさに欧州へ航せんとす。未だ発せざるに、たまたま幕府の使、小笠原壹岐守、日を刻して公父子を広島に召す。君、これを聞いておもえらく「戦期すでに近し」と。急ぎ軍艦一隻を購いて帰る。丙寅艦これなり。
慶応二年の春、君は私と長崎へ赴き、欧州へ旅立とうとした。長崎で船の出航を待っていた頃、幕府の使者・小笠原壱岐守は、日限を切って藩公父子を広島へ召還しようとした。君はこのことを聞いて「戦いの時機が目前に迫っている」ことを悟り、急いで軍艦一隻を購入し長州へ戻った。この時買った船が丙寅艦である。
六月、東軍、大島郡を襲う。君、丙寅艦に乗り、夜、敵艦へい列の中に突入し放砲して去る。敵軍震駭す。我が兵また海を渡り、陸上の敵を撃ち、これを走らしむ。君、ついで軍を豊前に進め、門司大里を取る。敵、小倉城を火き、退いて 香春に入り、ついに降を請う。しこうして芸石の東軍もまたすでに我の破るところとなる。四境の外、また敵騎を見ざるなり。ここにおいて幕威地に墜き、王政復古の業まさに緒につかんとす。
慶応ニ年六月、幕府の軍勢は大島郡を襲った。君へ丙寅艦に乗り込み、夜陰の紛れ、敵の軍艦が並んでいる中に突入し、砲を放って去った。突然の夜襲に敵軍は震え上がった。我が藩の兵はまた海を渡り、陸上の兵を攻撃して遁走させた。続いて君は軍を豊前に進め、門司大里の地を奪取した。敵兵は小倉城を焼き、退いて香春に入り、ついに降伏した。芸州や石州の幕府軍も我が軍に敗れた。四境の外に敵兵の姿はなく幕府の威信は地に落ちた。王政復古の偉業がまさに緒についたのである。
三年春、君たまたま疾を獲、四月十四日ついに起たず。春秋二十有九。けだし藩の士民、悼惜せざるなし。吉田村清水山に葬る、配は井上氏、一男あり、名は東一、その祀を承く。
慶応三年春、君は病にかかり、四月十四日、帰らぬ人となった。享年二十九歳。藩の誰もが君の死に哀悼の意を表した。君は吉田村の清水山に葬られた。配偶者は井上氏。その間に一男があり、名を東一という。その祀を承った。
明治二十四年、朝廷その功を追褒し、正四位を贈る。嗚呼、君没するの翌年、聖上登極し、乾坤一新す。しこうして、君、目に中興の盛業を観るをえず。身に昭代のはいたくにうるおうあたわず。悲しいかな。今、ここに某月、君の故舊相謀り、墓側に石を建て、以って之を朽せず。余に属して文をなさしむ。誼(ぎ)、辞すべからず。すなわちその行実を書す。概略かくの如し。
明治二十四年、朝廷は君の功を追褒し、正四位を贈った。
ああ、君が亡くなった翌年、天子は最高の位に付き、天下は一心した。しかし君は、朝廷が盛んになった様をその眼で見ることができず、この素晴らしい御世を知ることもなく世を去った。悲しいかな。今、ここに某日、君の古い友人らが相計り、君の墓の側に顕彰碑を建て、君の名を不朽のものとすることにした。そして、私に碑文を認めるようにと進めてくれた。これほどの名誉を断わることなどできない。そこで君の業績を記した。概略はかくの如し。
明治四十二年九月 正二位大勳位公爵 伊藤博文
高杉晋作顕彰碑 | |
名称 | 高杉晋作顕彰碑/たかすぎしんさくけんしょうひ |
所在地 | 山口県下関市吉田町1184東行庵境内 |
関連HP | 東行庵公式ホームページ |
電車・バスで | JR小月駅からサンデンバス秋芳洞方面行きで東行庵入口下車、徒歩8分 |
ドライブで | 中国自動車道小月ICから約5km |
駐車場 | 100台/無料 |
問い合わせ | 東行庵 TEL:083-284-0211 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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