青木さんのルーツを探せ!

大姓40位となる青木さんは、全国に34万人ほどが暮らしていて、シェアは0.27%。そんな青木さんですが、青い木が茂った地をルーツとする地形姓とも思える名前ですが、逆に青木さんが住んだことで地名が青木になった場所もあり、必ずしも地形姓とはいえないのです。

あの柳沢吉保も甲斐の青木氏がルーツ

柳沢吉保
柳沢吉保も青木さん一族

そんな青木さんですが、数ある家紋の中で富士山を家紋に使っているのは、青木さんぐらい。
「青木富士」という霞にたなびく富士山の家紋を使っているのです。

江戸時代の大名は280家を数えますが、実は、富士山を家紋に使っているのは麻田藩(あさだはん)の青木家だけ。
麻田藩は摂津国豊島郡麻田村の麻田陣屋(現・大阪府豊中市蛍池)を陣屋とした1万石の小藩で、現在の大阪府池田市、豊中市、箕面市、兵庫県川西市、伊丹市、尼崎市、宝塚市などを領有していました。

麻田藩の初代藩主・青木一重(あおきかずしげ)の父・青木重直(あおきしげなお=麻田藩の藩祖)は美濃国(岐阜県の南部)出身。

青木さんには富士山が似合うようで、富士山を間近に望む、甲斐国巨摩郡青木(山梨県韮崎市清哲町青木)を発祥とする青木氏は、清和源氏新羅三郎源義光の後裔。
甲斐国守護・一条源八時信の子・十郎時光を祖としています。

この系統の青木信親(武川衆の旗頭)は武田信虎・信玄親子に仕え、青木信親の子・青木信時は武田信繁(甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟)に仕えています。

その青木信時の指物には金札に「英雄」の二文字が記され、英雄という文字を翻した信時は、戦場を変幻自在に駆け回っていたとのこと。

青木家の墓所である武隆山常光寺も山梨県韮崎市清哲町青木にあり、開基は青木信定となっています。
実は、この定光寺は幕府側用人で六義園を造営した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)ゆかりの寺。
武田氏が滅び、織田信長が本能寺で没した後、青木信時は徳川家康の配下となって青木の地を安堵され、後に青木氏の支流柳沢氏を継いでいるのです。

柳沢吉保が、常光寺を崇敬するのは、青木家の菩提所だから(境内に青木氏歴代の墓があります)。
柳沢吉保の祖父・柳沢兵部丞信俊は、青木信親の三男。
つまりは、主命により柳沢家を継いだため、柳沢家にとって青木家は宗家となるのです。

柳沢家本来の菩提所・柳沢寺が水害などで衰えたこともあって、柳沢吉保は宗家の菩提寺である定光寺を尊崇したのだとか。
常光寺位牌堂には、なんと柳沢吉保寄進の青木家の系図が安置されていて、新羅三郎義光から第7世青木信親までを記しています。

武田遺臣から近世大名まで出世した柳沢吉保は青木さんの流れということで、韮崎市清哲町青木は青木さんの重要なルーツとなるのです。

飯能出身の青木さんが「青木富士」家紋の大名に!

武蔵七党の一つ丹党(たんとう=平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・児玉郡西部で活躍)の末裔が、武蔵国入間郡青木(埼玉県飯能市青木)の地を領し青木姓を称したといい、武蔵国(現・埼玉県)にも青木さんのルーツがあります。

この系統で、美濃(岐阜県の南部)に移った一族から戦国時代の青木直兼・青木重直親子が生まれ、豊臣秀吉や徳川家康に仕え、江戸時代には前述の「青木富士」を家紋にした青木一重が摂津国・麻田藩主となっているのです。

埼玉県飯能市青木には、残念ながら地名のほかには青木さんのルーツを伝えるものがなにも残されていません。
青木、中居、小久保、下加治の4村の鎮守は白子神社(しらねじんじゃ)で、天平勝宝元年(749年)の創建と伝わる古社。
白子神社を参拝してお茶を濁しておきましょう。

豊中市には大名になった青木さんの陣屋跡が

麻田陣屋跡
麻田藩陣屋跡の石碑(背後の公民館は撤去されています)

初代麻田藩主・青木一重の話を続けます。

青木一重は徳川家康と武田信玄が遠州で激突した三方ヶ原の戦いまでは徳川家康の配下でした。
その後、徳川家康の元を去って、織田信長の家臣・丹羽長秀(にわながひで=織田氏の宿老)に仕えていた父・青木重直を頼って、丹羽長秀の配下となります。

丹羽長秀に仕えて山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参戦、丹羽長秀の死後は羽柴秀吉の家臣に転じています。
大坂冬の陣まで豊臣秀頼の親衛隊である七手組の組頭を務めていた青木一重は、豊臣家滅亡後に剃髪していますが(大坂夏の陣には参陣していません)、徳川家康のたっての願いで新知召し出しとなり、摂津麻田藩1万2000石の藩主となっているのです。

家康の配下だった青木一重は、姉川の戦いで、朝倉家の武将・真柄直隆(まがらなおたか=真柄十郎左衛門)の子・真柄隆基(まがらたかもと)を討ち取る武功を挙げ勇名を轟かせていたのです。

以後青木氏は、廃藩置県の時まで14代が1万石の小藩ながら摂津麻田を支配しています。
外様ながら領地替えもなく幕末まで継続したのは稀なケース。
藩主。青木氏の不断の努力があったのでしょう。

麻田藩陣屋跡は大阪空港の目の前の蛍池公民館跡がその跡地(豊中市蛍池中町3-9-20)といい、阪急宝塚本線・大阪モノレールの蛍池駅前という一等地ですが、往時の面影はまったく残されていません。

陣屋図によると、その規模はおおよそ南北250m、東西190m。
東と北の2面に内堀を配し、本丸部分には、本丸御殿、会議所、柔剣道場などが建ち並んでいました。
能勢街道を陣屋内に取り込んで、交通の要衝をしっかりと抑えていたのです。

現在は、蛍池公民館跡に麻田藩旧蹟と刻まれた巨大な石碑が立つのみ。
常楽寺東の上西家(大阪府豊中市刀根山元町5-27)には麻田藩陣屋の西の門(長屋門)が移築され、陣屋跡とともに豊中市の文化財に指定されています。

また、麻田藩陣屋の御殿玄関が報恩寺(大阪府豊中市春日町2-6)に移築され、豊中市有形文化財に指定されています。

滋賀県米原市にも青木さんの大切なルーツが!

山津照神社
青木氏の城跡に建つ山津照神社

青木一重と同族と思われる安土桃山時代の武将・青木一矩(あおきかずのり)は、越前北ノ庄21万石の城主に。
孫の青木久矩(あおきひさのり)は大坂の陣に豊臣方に味方し戦死。
娘の蓮華院(お梅の方)は徳川家康の側室の一人となっています。

さらに、近江国坂田郡青木(滋賀県湖南市石部)を発祥とする藤原利仁流の青木氏も忘れてはならない青木さんのルーツ。

かつての近江国坂田郡、現在の滋賀県米原市能登瀬に鎮座する「青木大明神」と呼ばれる山津照神社(やまつてるじんじゃ)は、江戸時代は「青木梵天王」などと称していた広大な社。
伝承によると藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の後裔・青木武蔵守頼忠が当地に土着し山津照神社の別当として祭祀を担ったのだとか。
だから「青木大明神」と呼ばれるようになったというわけなのです。

山津照神社、その別当(神社を管理した寺)・善性寺一帯が青木氏の城跡で、境内社の青木神社付近には居館である「御殿」が設けられていました。

実はこの山津照神社、明治15年に現社地に遷座する以前は、青木神社のあった場所に建っていたというので、青木神社にもぜひ参拝を。

山津照神社と青木神社の間にある前方後円墳は、神功皇后の父・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の墳基といわれ、多くの文化財が出土しています。

山津照神社

山津照神社

滋賀県米原市にある平安時代編纂の『延喜式神名帳』記載の古社が山津照神社(やまつてるじんじゃ)。創建年代は定かでありませんが奈良時代には創建されていたと推測できます。祭神は、天地開闢の際に出現した国之常立神(くにのとこたちのかみ)。境内には山

青木さんは北関東に多い

湖国・近江(滋賀県)からは、ほかに佐々木氏流や、蒲生氏流の青木氏が出ています。
武蔵国からは、藤原秀郷流の青木氏も出ているので近江と武蔵は青木さんのルーツということになります。

青木さんは東日本に広く分布し、とくに北関東に多く、栃木県で大姓12位、群馬県19位、神奈川にもかなり分布しています。
また島根県にも多くの青木さんが暮らしています。

神奈川県では真鶴半島のある真鶴町が「青木さんが多いことに驚かれます」(真鶴町役場)というほど、青木さんが多い町ですが、源頼朝が追手に追われた際、「アオキ」という木で入口を隠し見えないようにしてくれた人に青木姓を与えたという話が伝わっています。

家紋は、青木一重などの丹党の青木富士が著名ですが、実はこれは替紋で、いわゆる定紋は三つ盛り州浜(みつもりすはま)となっています。
ほかに、割菱、稲丸に一、丸に一、丸に葛花、丸に揚羽蝶、花菱、九曜、桔梗、梅鉢など。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

青木さんのルーツを探せ!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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