金子さんのルーツを探せ!

もしあなたの家の家紋が、蜻蛉紋の三つ蜻蛉(みつとんぼ)であれば、あなたのルーツは村山党の金子氏かもしれない。金子氏は武蔵七党の一つ桓武平氏村山党の一族である。武蔵国多摩郡村山を領した平頼任(たいらのよりとう)が村山党の祖となり、その孫の村山家範(むらやまいえのり)が入間郡金子に住み、金子を名乗ったのが始まり。

金子さんの大切ルーツは、武蔵の村山党

──こうして、村山家範の子・金子家忠の登場となる。
保元元年(1156年)、金子十郎家忠は源義朝に従って保元の乱に出陣する。
弱冠19歳の金子家忠は、敵の大将・鎮西八郎の部下で鬼神といわれた高間三郎・四郎兄弟を一騎討ちで倒し、その名を天下に響かせる。
さらに、治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵の際には、畠山重忠(はたけやましげただ)とともに衣笠城(きぬがさじょう/現・神奈川県横須賀市衣笠町)を包囲して三浦大介義明を討ち破る(鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』による)。

この戦で金子家忠は身体に21本の矢を受けたが、少しも怯むことがなかったという兵(つわもそ)ぶりを示した。
その後、金子家忠は、源義経のもとで一ノ谷合戦などで数々の軍功をたて、その功績により武蔵国入間郡金子や伊予国新居、播磨国鵤(いかるが)等の地頭となった。

埼玉県入間市木蓮寺の瑞泉院は、かつての金子十郎家忠館(金子氏館)で、家忠の墓と金子氏一族の宝篋印塔が残されている。
また、金子氏一族は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県入間市)周辺を領していたので、地名として今に残る入間市金子は、金子さんの本貫(発祥の地)。

伊予(愛媛県)にも金子さんのルーツが

舞台を伊予国に移そう。
武蔵国の金子を治めていた金子氏は戦国期を戦い抜き、関東一円に土着するが、一族の金子広家は、鎌倉時代の建長年間に所領であった伊予国新居郡に地頭として移住し、その地を金子と名付けた。
さらに、金子山頂に金子城を築き、舘を山麓の現在の慈眼寺(愛媛県新居浜市)に構えた。

以後、金子広家の子孫は伊予金子氏として栄えるが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が四国制覇に乗り出すと、その命を受けた毛利氏一族の小早川隆景の大軍により金子城は落城、城主・金子元宅(かねこもといえ)は討ち死に(天正の陣)となる。
300年以上にわたる伊予国の金子氏の歴史はここで閉じられ、僅かに残った一族は大坂夏の陣において豊臣方に付くが敗れ、九州天草に逃げのびるとその地に根付いたという。

その後伊予国では金子元宅の弟・金子元春が金子氏の舘跡に慈眼寺を開基した。
慈眼寺には金子元宅供養塔や天正の陣で亡くなった将士の墓がある。

 他の金子城としては、金子出雲守が守っていた小机城の支城・金子城(横浜市港北区篠原北、新横浜駅の東側)があり、一方、諏訪湖へ流れ込む宮川の流れの麓には、諏訪地方最初の平城である金子城(諏訪市中洲)があった。

他の系統の金子氏には、代々、石見国造として君臨してきた豪族の石見国物部氏族の金子氏や、清和源氏小笠原流の金子氏、橘氏族新居氏流の金子氏、諏訪大社や弥彦神社にも神官の金子氏がいる。

金子姓は関東から新潟、山形にかけて多く、埼玉で大姓13位、新潟は17位となっている。
武蔵七党の村山党の一族らしく、現在でも埼玉県入間市から東京都清瀬市周辺にかけて金子姓が多く見られる。
狭山茶の茶畑広がる一帯は、やはり村山党の本拠地を今に伝えるということに。
JR八高線には金子駅があり、全国でたったひとつの金子駅になっている。

家紋は、村山党の金子氏が蜻蛉紋の三つ蜻蛉。
他に、鉄線、丁子、茗荷、竹に雀、井桁に沢瀉(おもだか)、抱き柏、鷹の羽、橘、雁、木瓜、下り藤などがあるが、珍しい紋に伊予金子氏の“丸に七つ亀甲”がある。

蜻蛉紋の三つ蜻蛉

協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)

 

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