大姓47位の中川さんは、全国に30万人ほど暮らしていて、シェアは0.24%ほど。「中央の川」さらには河川交通の中心という意味合いの地形姓で、名古屋市に中川区があるように、全国の中川という地名から苗字が発祥したと推測できるので、そのルーツも全国に散らばっています。
鬼瀬兵衛と讃えられた中川清秀
まずは、ルーツを戦国時代へと遡り、中川清秀(なかがわきよひで)から。
多田源氏の後裔と称した中川清秀は、本能寺の変後の山崎の戦いで羽柴秀吉軍の先鋒隊として明智光秀軍を大破するなど大活躍。
翌年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉方先鋒二番手として参戦し、大岩山砦で柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って討ち死にしています。
人気漫画の『へうげもの』 では、主人公・古田織部(古田重然)の義兄として登場。
実は中川清秀の妹は古田織部に嫁いでいるのです。
──摂津国川辺郡多田荘(ただのしょう=兵庫県川西市・猪名川町一帯)を発祥とする清和源氏頼光流多田重国子の中川清深が中川氏の始まりで、中川清秀はその末裔とのこと。
中川清秀は天文11年(1542年)、摂津国福井村中河原(現・大阪府茨木市中河原町)に生誕。
織田信長の配下として摂津国・茨木城(大阪府茨木市片桐町)12万石の城主となり、後に嫡子・中川秀政は播磨国・三木城(兵庫県三木市上の丸町)を、次男・中川秀成(なかがわひでしげ)は豊後岡藩の初代藩主となるなど、大名家として出世しています。
中川秀成のあとは中川久盛が継ぎ、明治維新まで代々豊後岡城(竹田市竹田)を居城として、岡藩の藩主を務めています。
大名家となった中川家の祖・中川清秀の墓は、大岩山砦跡(滋賀県長浜市)と、梅林寺(大阪府茨木市片桐町1-3)に。
中川さんのルーツを発祥という兵庫県川西市・猪名川町(摂津国川辺郡多田荘)に辿ることは困難なので、まずは中川清秀の墓のある大阪府茨木市へ。
中川清秀の墓のある梅林寺は、慶安3年(1650年)の茨木川の水害で、現寺地に移っていて往時の場所とは異なります、本堂裏の墓地には中川清秀と弟・中川淵之助の墓が残されています。
賤ヶ岳から遺髪のみ持ち帰って埋葬したものと伝えられています。
生まれ故郷である福井村中河原(大阪府茨木市中河原町)は北西に3kmほどの所だから、一帯が中川さんの大切なルーツのひとり、中川清秀の故郷と考えていいでしょう。
『荒城の月』の岡城(大分県竹田市)もルーツのひとつ
瀧廉太郎の『荒城の月』の舞台としても知られる豊後岡城跡(大分県竹田市竹田)は、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封されて、3年を掛けて大改築した城。
大野川の支流である稲葉川と白滝川が合流する地点に位置し、川岸から切り立った断崖絶壁の台地上の岡城址はまさに天然の要害です。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年から翌年にかけて城内の建造物はすべて破却され、現在残るのは巨大な石垣だけになっています。
豊後岡藩の藩主となった中川家は、外様7万石の大名ながら初代の中川秀成から13代の中川久成まで、幕末まで存続。
最後の藩主である中川久成(なかがわひさなり)は、維新後華族となり、司法省に出仕後、貴族院議員を務めています。
岡城跡内の藩祖廟所(荘嶽社・そうがくしゃ)を移築した中川神社(大分県竹田市拝田原159)の祭神は、初代藩主・中川秀成で、父・中川清秀と兄・中川秀政をともに奉祀しているから中川さんの貴重なパワースポットに違いありません。
また、近くにある扇森稲荷神社(おうぎもりいなりじんじゃ=竹田市拝田原桜瀬811)も元和元年(1616年)、岡藩第12代藩主・中川久盛が創建。
「狐頭様」(こうとうさま)と通称され、九州三大稲荷のひとつに数えられるので、あわせて参拝したい社です。
参勤交代で江戸屋敷に暮らす中川久昭の夢中に稲荷狐頭源大夫と名乗る神霊が現れ、「翌日の江戸城登城は危険なので気をつけるように」と夢告。
実際に暴漢に遭ったが大事に至らなかったことで、故郷の霊地に稲荷社を創建したのだとか。
まさに中川さんを助けた稲荷狐頭源大夫というわけなので、ぜひ参拝を。
岐阜県大垣市に見つけた中川さんのルーツ
美濃国安八(あんぱち)郡中川(現・大垣市中川町)からは、いくつかの中川氏が発祥しています。
古くは藤原南家武智麻呂の後裔・藤原清兼(ふじわらのきよかど)を祖とする中川氏で、子孫は三河に移り徳川の旗本となっています。
また、清和源氏小笠原氏族の中川氏は同地の地頭になり、清和源氏斯波氏から分かれた中川氏も同地から生まれています。
大垣市中川町は、岐大バイパスに中川町交差点という名を残し、中川小学校や大垣中川郵便局もありますが、残念ながら中川さんのパワースポット的なものは残されていません。
岐阜県では中津川市にも中川さんのルーツが
岐阜県中津川市には中川神社(岐阜県中津川市北野町816-1)が鎮座。
中川神社の「中川」は古くは「なかつかわ」と呼ばれていた時期もあり、これが「中津川」という地名の由来となったとか。
「ナカツ」は川の中の湊(中津)、あるいは川の中心地の意。
木曽川の支流の中津川を、古くは中川と呼んでいたというから、中川神社はまさに中津川市の産土神(うぶすながみ)。
恵那山が天照大神の胞衣を収めた地(恵那神社)とされていることから、奈良時代の東山道が通る東西交通の要衝だったことからも、古代から一帯が重要な地だったことは間違いありません。
大名・中川家の家紋には十字架が隠されている
北鎌倉の光照寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)の山門の欄間にはキリスト教の十字架を表す中川久留子紋(なかがわくるすもん)が残されています。
近くにあった臨済宗の東渓院(豊後岡藩3代目藩主・中川久清が創建)が明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった際に移築したもので、中川久留子紋は、東渓院の檀那・豊後岡藩・中川家の家紋です。
家紋の中には、固有の苗字の人だけが用いる専用家紋というものがあり、その家紋の名称の前に特定の苗字が付けられていますが、この中川久留子紋もそのひとつ。
徳川氏の徳川葵や浅野氏の浅野鷹の羽、真田氏の真田六連銭、武田氏の武田菱、島津氏の島津十文字、柳生氏の柳生笠、山内氏の山内一文字、田村氏の田村車前草(おおばこ)、太田氏の太田桔梗などが知られています。
中川さんも同様に、この中川久留子と中川柏(なかがわかしわ)というふたつの専用家紋を持っています。
最初に紹介した安土桃山時代の武将・中川清秀は織田信長、羽柴秀吉に従った勇将ですが、幼少から十字架を離さなかった敬虔なキリシタンでもあったため、家紋に十字架が隠されています。
キリシタン大名の中川氏の家紋である「中川久留子紋」は別名「十字架紋」とも呼ばれ、久留子の中へ巧妙に十字架が隠されているのです。
羽柴秀吉は賤ヶ岳で散った中川清秀の武功に免じて、キリシタン禁制となった際にも中川氏の久留子紋を暗黙のうちに許しています。
中川さんの家紋が中川久留子であれば、この中川清秀の末裔かもしれません。
中川さんは北陸(石川県で大姓7位、富山県で9位)と関西(滋賀県6位、三重県12位)に多いのが特長。
徳島県では大姓10位、北海道でも19位となっています。
奈良県や佐渡島(新潟県)には仲川姓も多く見られます。
代表家紋は中川久留子(車)と中川柏。
東京青山にある岡藩・中川家の墓石には中川久瑠子が刻まれています。
柏は神に供える神饌に由来し、中川姓は抱き柏の形に。
ほかに、片喰(かたばみ)、轡(くつわ)、六つ木瓜(もっこう)、二つ引両、目結、七曜、五七桐、鎧蝶、牡丹の折枝、丸に鳩など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
中川さんのルーツを探せ! | |
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