大姓32位の長谷川さんは、全国に38万人ほどが暮らし、国民の0.30%ほど。新幹線「のぞみ」の1編成なら3人以上は長谷川さんが乗車している計算に。舟運で遡った最上流の泊瀬(はつせ)、初瀬、あるいは長い谷を流れる川とも推測される地形姓ですが、全国にそのルーツが点在しています。
長谷川さんのルーツのひとり、長谷川平蔵は実在!
時代劇がらみでいえば池波正太郎原作でテレビ時代劇『鬼平犯科帳』主人公の鬼平(おにへい=鬼の平蔵)こと「長谷川平蔵」という名は、実は本名で、青年時代に放蕩無頼で「本所の銕」(ほんじょのてつ)と呼ばれていたのも事実のようです。
正式には長谷川平蔵諱宣以(長谷川宣以・はせがわのぶため)で、父・長谷川宣雄(はせがわのぶお=通称は息子と同じ平蔵)も火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)、京都西町奉行まで勤めた有能な旗本(400石)でした。
天明3年(1783年)の浅間山大噴火や大飢饉の後、田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚し、天明7年(1787年)、陸奥国白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ=8代将軍・徳川吉宗の孫)が老中に就任し、有名な寛政の改革に着手します。
経済不安から世情は乱れ犯罪は凶悪化していくなか、長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったのは、同年10月のこと。
以来、長谷川平蔵は没するまでの8年間に渡って火付盗賊改方を務め上げていますが、過去、火付盗賊改方という激務を8年も務めた旗本はいないので、まさにドラマの主人公的な活躍です。
長谷川平蔵は江戸市中を巡回し、放火や殺人・強盗などの凶悪犯罪を捕え、取り調べ、裁判する権限まで与えられていて、寛政元年(1789年)、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にしています。
さらに神稲(しんとう)小僧や妖盗葵小僧の逮捕から、人足寄場の設置と歴史に刻んだ長谷川平蔵の功績は大。
そんな長谷川平蔵は江戸・赤坂築地中之町に生まれてから、父・長谷川宣雄の屋敷替えで、築地鉄砲洲湊町や本所二ツ目などに居を替えていますが、自身が火付盗賊改の長官であった組屋敷は、『鬼平犯科帳』では四谷坂町、旗本の系譜や家紋を記した『改定大武鑑』には目白台と記されています。
もし目白台だとすると、そこは護国寺近くの「御手先与力同心大縄地」だったのだろうと推測できます。
そして、中央区佃1丁目あたりが、その昔、人足寄場のあった石川島。
中央区立佃公園の一角に、古式灯台を模して作ったという石川島灯台があり、灯台脇の看板に、江戸時代の地図入りで人足寄場の由来が記されているので、東京近郊の長谷川さんなら一度は立ち寄ってみるのもいいでしょう。
ちなみに長谷川平蔵の墓は東京都新宿区須賀町の戒行寺にあるので、長谷川さんなら一度は墓参りに行くのもおすすめです。
長谷川家の家紋は三つ藤巴で、平蔵が捕物に際して被る陣笠や、装束の紋所にもなっているので、家紋が三つ藤巴という長谷川さんは、ひょっとするとひょっとするのかもしれません。
長谷川さんのパワースポットの筆頭は長谷寺!
この長谷川平蔵のルーツをさかのぼれば、徳川家康と武田信玄の三方ヶ原の戦いで武田軍の前に華々しく散っていった長谷川正長(はせがわまさなが=駿河国小川城主)や、長谷川正長の祖父・駿河国益頭郡小河の小川長者法栄に辿りつきます。
話が長くなりましたが、「藤原北家藤原秀郷流」の長谷川平蔵のルーツを求めて大和国(奈良県)へと旅しましょう。
藤原秀郷流の長谷川氏は、古墳時代、奈良県桜井市の初瀬(泊瀬)の地を支配していた県主(あがたぬし)が、川にちなんで長谷川を名乗ったのが始まり。
『万葉集』にも「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山際(やまのま)に いさよふ雲は妹(い も)にかもあらむ」(巻3-428/柿本人麻呂)とあるので、古代には泊瀬だったことがよくわかります。
「初瀬・泊瀬」(はせ)とは牡丹で有名な長谷寺(奈良県桜井市初瀬=初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がります)のある場所で、昔は「はつせ」と読んでいたのだとか。
長谷(ながたに)の初瀬川(はつせがわ)が転じて長谷川となったということに。
奈良の名刹、長谷寺はまさに長谷川さんのパワースポットでもあるのです。
というわけで、長谷川さんならぜひぜひ長谷寺に参拝を。
近くには長谷山口坐神社(はせやまぐちにいますじんじゃ)も鎮座していますが、この地の氏神なのであわせて参拝を。
大阪府と兵庫県の境にある長谷の棚田もチェックを
鎌倉にある有名な長谷寺も、天平8年(736年)、大和の長谷寺の開基・徳道を藤原房前が招いて開いたというからやはり長谷川さんのパワースポットといるかもしれません。
そのほかの長谷川氏は、長谷川党で知られる大和国式上(しきじょう)郡長谷(初瀬村)を発祥とする在原氏族と同じ大和国十市(といち)郡の中原氏族、摂津国能勢郡長谷(現在の大阪府豊能郡能勢町長谷)を発祥とする清和源氏満政流、また越中国の藤原利仁流や美濃国の橘氏族などもあり、多彩です。
大阪府豊能郡能勢町長谷(ながたに)は棚田が200枚ほど残る棚田の里で、鎮守社である岐尼神社(きねじんじゃ)は、延暦元年(782年)創建の古社。
一帯は枳根庄(きねのしょう=枳禰庄)と呼ばれた荘園でしたが、ここから清和源氏満政流の長谷川さんが生まれています。
大阪府と兵庫県の境にある長谷の棚田(ながたにのたなだ)は長谷川さんのルーツといえるでしょう。
静岡県焼津市や名古屋市にも長谷川さんゆかりの地が
長谷川さん関係で訪ねたい場所としては、静岡県焼津市西小川に長谷川平蔵の祖先である法栄(前出)の「法永長者屋敷跡」という小川城跡があります。
屋敷とはいえ、その周囲に長大で複雑な堀を巡らし、戦闘に対する防御機能を備えた城郭的構造になっていたと推測でき、昭和54年からの小川地区遺跡群発掘調査により、屋敷の周囲に堀をもつ本格的な中世屋敷跡が発見されています。
素掘りの堀は幅が15m~16m、深さが1m~2.6mというからまさに城郭。
屋敷跡からは陶器や中国産の輸入陶磁器、漆器や曲物など、刀・釣針・古銭、斎串・呪符・人形・舟形などの呪術資料が出土し、往時の繁栄がしのばれます。
その孫の長谷川正長(前出、駿河国小川城主)が開基した焼津市小川の長谷山信香院(静岡県焼津市小川3481-7)には、長谷川正長の墓碑も残されています。
この長谷山信香院は永正14年(1517年)秋の暴風雨で大破したのを長谷川正長が支援して再建、中興。
徳川家康に仕えた長谷川正長(当初は今川義元に仕えていましたが、信玄の駿河侵攻後は家康の配下に)は、元亀3年(1572年)、三方原の戦いで、武田勢を相手に奮闘しますが討死し、この信香院に葬られているのです。
小川城跡を必死に訪ねても、そこには碑が立っているくらいなので、まずは信香院を目ざすのが長谷川さんにとっても、長谷川平蔵のファン(長谷川正長は長谷川平蔵の祖先)にとっても賢明といえるでしょう。
名古屋市には長谷川城も!
さらに、かつて長谷川党が大和の武士を代表して『春日若宮おん祭』に参列していた春日大社や、名古屋市北区如意にある別名・長谷川城と呼ばれる如意城跡、映画俳優の「長谷川一夫の寺」と呼ばれている宇治市六地蔵の極楽寺なども長谷川さん関係としては興味深いスポット。
京都で生まれた長谷川一夫(本名)も名流の長谷川さんの家系です。
このなかで注目なのは名古屋市にある長谷川城(如意城)の跡(名古屋市北区如意2丁目)。
現在は如意山瑞應寺(ずいおうじ)という寺になっていますが夢窓疎石(むそうそせき)の創建と伝えられる名刹なので名古屋周辺の長谷川さんは一度出かけてみるのもいいでしょう。
南北朝時代に南朝に仕えた越中国・貴船城(富山県高岡市福岡町木舟=石黒氏累代の居城で、飛騨帰雲城と同じく大地震で崩壊)の城主・石黒重之の子、石黒重行は明徳4年(1393年)、長谷川重行と名乗ってこの地に移り住んでいます。
そして長谷川城(如意城)を長谷川氏代々の居城とし、羽柴秀吉にも仕えています。
突出して多い県がないのも地形姓ゆえ
長谷川さんと聞いて思い浮かべる有名人は誰でしょう?
『サザエさん』、『いじわるばあさん』の作者・長谷川町子は、佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)の生まれ。
ハセキョンこと長谷川京子は、千葉県船橋市の生まれ。
年配の人なら往年の時代劇スター・長谷川一夫(前出)という人もいるでしょう。
長谷川一夫は京都・伏見の出身です。
俳優の長谷川博己(はせがわひろき)は東京都出身。
錦鯉のボケ担当・長谷川雅紀(はせがわまさのり)は、北海道札幌市白石区出身。
モデルでタレントの長谷川潤(はせがわじゅん)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州マンチェスターの生まれ。
有名人からはまったく傾向は掴めません。
長谷川さんは新潟県で大姓7位、北陸から東北にかけて多く、四国、九州には少ない傾向に。
突出して多い県がないのも地形姓ゆえということに。
家紋は、秀郷流が三つ藤巴、釘抜、藤丸、八ツ藤。橘氏族は橘や桧扇。
ほかに、丸に立て三つ引両や鷹の羽など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
長谷川さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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