薬師寺・玄奘三蔵院伽藍

薬師寺の白鳳伽藍の北側、写経のできる写経道場、本坊事務所のさらに北側にあるのが玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)。玄奘三蔵は、『西遊記』で有名な三蔵法師のこと。玄奘三蔵の究めた瑜伽唯識(ゆがゆいしき)の教えを伝える法相宗(ほっそうしゅう)大本山の薬師寺で、玄奘三蔵を祀る伽藍がここ。

玄奘三蔵の遺骨を祀る伽藍

昭和17年、南京に駐屯していた日本軍が発見したと伝えられる玄奘三蔵の遺骨。
埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安されましたが、昭和56年に全日本仏教会から分骨されたのを契機に、建立された伽藍が玄奘三蔵院伽藍です。

平山郁夫が30年をかけて制作した玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」(縦2.2m、長さが49m、13連)も玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿に祀られています。

玄奘三蔵の命日が2月5日なので、初めての月命日として1月5日に『 初玄奘三蔵会・平和祈願祭』を行なっています。
それにあわせて、例年、1月1日〜15日の間、玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿は特別公開されています。

玄奘三蔵(三蔵法師)と薬師寺の関係は!?

唐代の中国の訳経僧。
玄奘は戒名で、本名は陳褘(チンイ)。
629(貞観3)年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行なって645年に経典657部や仏像などを持って帰還、法相宗の開祖となりました。
646(貞観20)年、歴訪した110ヶ国および伝聞した28ヶ国を全12巻の地誌『大唐西域記』としてまとめ、中世に生まれた伝奇小説『西遊記』のルーツとなりました。
遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受け、さらに道昭の弟子が行基。
日本における法相宗は、道昭が法興寺で広め、華厳宗など南都六宗の一つに発展します。
その法相宗の大本山が薬師寺です。

薬師寺・玄奘三蔵院伽藍
名称薬師寺・玄奘三蔵院伽藍/やくしじ・げんじょうさんぞういんがらん
所在地奈良県奈良市西ノ京町457
関連HP薬師寺公式ホームページ
電車・バスで近鉄橿原線西ノ京駅から徒歩2分。またはJR奈良駅から奈良交通バス六条山行きで18分、薬師寺下車すぐ
ドライブで西名阪自動車道郡山ICから約7.5km。第二阪奈道路宝来出口から約5km
駐車場薬師寺駐車場(100台/有料)
問い合わせ薬師寺 TEL:0742-33-6001/FAX:0742-33-6004
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

薬師寺

薬師寺は680(天武天皇9)年、藤原京に天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ=のちの持統天皇)の病気平癒のため発願し創建された法相宗の寺で、平城京遷都とともに奈良に移されたもの。日本に仏教が伝えられた時代のままの伽藍(薬師寺式伽藍)

薬師寺・西塔

薬師寺西塔は、1528(享禄元)年の兵火により焼失、礎石のみが残されていたものを昭和56年に453年ぶりに再建。国宝の東塔とほぼ同じ形で、白鳳様式を用いて建てられています。よく見ると東塔は裳階(もこし=軒下壁面に付いた庇状構造物)部分が白壁

薬師寺・東塔

薬師寺・東塔は、730(天平2)年に造営されたと伝わる三重塔。高さ33.6mで各層に裳階(もこし)を付けているため六重に見えるのが特徴。薬師寺は、数度の災害と1528(享禄元)年の兵火により多くの堂宇は焼失していますが、東塔は当時の建造物で

薬師寺・東院堂

薬師寺の東院堂は養老年間に吉備内親王(きびないしんのう)が平城京に遷都した女帝・元明天皇(げんめいてんのう)の冥福を祈り建立したもの。境内東側、東回廊の外に位置しています。973(天禄4)年の火災で焼失後、1285(弘安8)年に再建された建

薬師寺・回廊

薬師寺の金堂、大講堂、西塔、東塔を取り囲むのが東西の回廊。薬師寺式と呼ばれる伽藍配置は白鳳時代そのままなのです。回廊のエンタシス風の列柱はヘレニズム文化の影響を残したものともいわれてきましたが、現在では否定的な意見が多いのも事実。昭和43年

薬師寺・大講堂

平成15年3月に四百数十年ぶりに奈良、薬師寺に復興したのが大講堂。正面41m、奥行き20m、高さ17mという巨大な建物で、薬師寺の中では最大の建造物。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、講堂にはたくさんの学僧が参集して経典を講讃した

薬師寺・金堂

世界遺産「古都奈良の文化財」に登録される薬師寺の伽藍のうち、昭和51年に再建された白鳳伽藍の一部が金堂。金堂は1528(享禄元)年、土地の豪族の戦火で焼失。豊臣秀吉が再建を計画しましたが叶わず、復興は長年の悲願だったもの。国宝・薬師三尊像を

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