石田さんのルーツを探せ!

石田さんは大姓57位で、全国で26万5000人ほどの暮らしていて、シェアは0.21%ほど。石の多い田、石のように地盤の堅い田という意味の地形姓で、全国各地にそのルーツがあると推測できます。岩田・磐田など東海地方に多い姓にも似ていますが、人数的には岩田さんは125位くらいなので石田さんが圧倒。

ルーツ探しは伊勢原市石田からスタート

関ケ原古戦場に立つ石田三成陣営の幟

家紋の中で一番わかりやすいのが文字紋です。
文字紋はその名の通り、文字を母体にしていて、少し前までは、歴史のある三越や伊勢丹、高島屋、大丸といったデパートは文字のマークを使用していました。

しかし、家紋の文字紋としては、やはり、関ヶ原の合戦で西軍の総大将だった戦国武将・石田三成オリジナルの家紋「大一大万大吉」が、そのデザイン性からも圧倒的な存在感を有しています。

それぞれの家が伝える家紋の文字紋では、「花は霧島、煙草は国分(たばこはこくぶ)」の『鹿児島おはら節』にも「見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー 帆が見えた」という歌詞が登場する島津氏の「丸に十の字」、瀬戸内海の雄、村上水軍の「丸に上の字」が有名ですが、なんといっても、石田三成の「大一大万大吉」が最も変わった文字紋でしょう。
「大一大万大吉」の家紋は、石田三成が大願成就の思いをこめて使ったという家紋なのですから。

その石田三成の出身地は、近江国坂田郡北郷村大字石田、現在の滋賀県長浜市石田町。
その先祖は桓武平氏三浦氏流石田氏といわれ、相模国大住郡糟屋庄石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)を領したことから石田氏を称し、その流れに『平家物語』の「木曽最期」(木曽義仲と家臣の今井兼平の最期を描いた巻第九の章)や、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』(元暦元年正月20日条)に木曾義仲を討ち取ったと記される石田為久(いしだためひさ=相模石田氏の祖)がいます。

小田急線の愛甲石田駅(駅名は厚木市側の愛甲と伊勢原市側の石田を合成)は、実は、石田さんのルーツへの玄関駅となっているのです。
愛甲石田駅にほど近い円光院(神奈川県伊勢原市石田928)は、石田城の城跡で、石田為久の馬洗場跡(水神が祀られています)、土塁跡、石田為久・為景の墓などが残されています。

あまり知られていませんが、この石田為久も「大一大万大吉」を家紋にしていたので、それを石田三成が取り入れたと(安土桃山時代の石田三成はその後裔と称してします)、伊勢原の郷土史家は考えているのです。

石田為久は木曾義仲を討ち取った功で、近江国に土地を拝領しているので、そのあたりで、石田三成と繋がっているのかもしれません。

いずれにしろ、この伊勢原市石田は石田さんにとっては重要なルーツです。

石田三成の故郷、近江長浜へ!

石田為久の裔(えい=子孫)と自称した石田三成は、豊臣秀吉に従って各地に転戦し、九州征伐の兵站奉行(へいたんぶぎょう=行軍・戦闘中の兵糧輸送を担当する責任者)、朝鮮出兵の舟奉行(船頭、水夫などを指揮し軍船のことを統轄する責任者)、さらに太閣検地(山林を除く田畑の測量及び収穫量調査)などでその手腕を発揮し、豊臣秀吉の五奉行のひとりとなるまで昇進。

文禄4年(1595年)、近江国・佐和山城主となり19万4000石を与えられています。

豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立した石田三成は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍の総大将として「大一大万大吉」の旗印に掲げて戦うものの、ついに敗れ、「大願成就」は叶うことなく潰えています。

捕らえられた石田三成は京の六条河原で処刑され、その子孫は津軽に落ち延び、杉山と名を変え、やがて津軽藩の家老を務めたとか。

石田三成を大河ドラマの主人公にと、地元、近江長浜(滋賀県長浜市)など湖北地方では熱心な運動が展開されていますが、石田三成の旧跡は、いずれも観光地化されています。

長浜駅前には「秀吉・三成出逢いの像」が立ち、長浜市石田町のかつての石田屋敷跡は石田会館となっていて、石田治部少輔出生地碑や石田三成像が立てられています。

「秀吉・三成出逢いの像」は、長浜城主だった羽柴秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶を並々と、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱した少量のお茶を差し出したという「三献の茶」の逸話を元にした、三成の叡智を今に伝える像。

石田屋敷跡に隣接する石田氏の氏神の八幡神社(石田神社)には、石田一族と家臣の供養塔が立てられ、石田三成産湯の井戸址などというものもあるのでお見逃しなく。

また、石田三成の居城、佐和山城跡(彦根市佐和山町)には石垣と土塁の一部などが現存。
時間が許せば、長浜城跡(長浜市公園町)にも寄って再建天守閣を見学しながら、戦国乱世に湖国・近江で活躍した石田三成に思いを馳せましょう。 

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石田会館(石田屋敷跡・石田三成出生地)

滋賀県長浜市の東部に位置する石田町は、戦国時代末期、豊臣秀吉の五奉行として活躍したといわれる知将・石田三成(いしだみつなり)の出生地。現在は公民館となった石田家の屋敷跡には「石田治部少輔(いしだじぶしょうゆう)出生地」と刻まれた顕彰碑も建っ

石田姓は地名姓なのでルーツは全国に

そのほかの石田氏としてはまず、垂仁天皇の皇子・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)の子孫が山城国久世郡石田に住んで石田君を称したとのこと。
平安時代編纂の『延喜式』神名帳には久世郡の石田神社が記されていますが、京都府八幡市岩田里の石田神社(いわたじんじゃ)と推測できます。

時代は下って、武蔵国多摩郡石田を発祥とする小野姓横山党の石田氏も忘れてならない石田さんのルーツです。
新選組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)が生まれた石田村(東京都日野市石田)の石田寺(せきでんじ)には、土方歳三の墓があり、石田寺から西へ行けば、土方歳三の生家と資料館が併設されています。

一方、岩代国伊達郡石田(伊達市霊山町石田)を発祥とする藤原姓伊達氏流の石田氏は、伊達氏に仕えて仙台藩の重臣となっています。

また、壱岐の石田氏は壱岐国石田郡石田を発祥とする桓武平氏三浦氏族です。

石田城という名称では、長崎県五島市池田町の、別名福江城ともいう石田城が。
石田城(福江城)は幕末の文久3年(1863年)に完成した「日本最後の城」で、かつては、日本でも珍しい海城だったのです。
二の丸の位置に五島氏庭園が現在も残っていて、国指定名勝に指定されています。
本丸跡の城山神社の宮司は、第35代五島家当主・五島典昭(ごとうのりあき)さんで、目下、日本で唯一、個人所有の城主として観光客を迎えています。
母方の曽祖父は琉球王国の最後の王・尚泰王(しょうたいおう)とのこと。

福江城(石田城)

福江城(石田城)

長崎県五島市池田町にある幕末に築かれた福江藩(五島藩)の城が福江城(石田城)。福江藩10代藩主・五島盛成(ごとうもりあきら)の時、異国船の来襲に備え、嘉永2年(1849年)から15年もの歳月をかけ、幕末の文久3年(1863年)にようやく完成

「大一大万大吉」はラグビーに通じる精神とも

神社としては、大阪府東大阪市岩田町に石田神社(いわたじんじゃ)があり、京都府八幡市上津屋里垣内に式内社に比定される前述の石田神社(いわたじんじゃ)、福井県鯖江市石田上町に石田神社(いわたじんじゃ)が鎮座しています。

「いしだ」ではなく、「いわたじんじゃ」なのは、新田を開拓する際、邪魔なのは石ではなく、岩だし、水はけからも岩のような地盤の田というのが多かったこかもしれません。
それなのに岩田さんは125位というのは、岩よりも石のほうがニュアンスが柔らかいからなのでしょうか。

石田さんは京都府(大姓35位)から富山県(37位)など近畿から北陸地方にかけて多いのが特長。
また山口県でも38位となっています。

代表家紋は、並び矢。石田三成は「大一大万大吉」。
ほかに九曜、沢瀉、柏、三つ目など。

ちなみに、「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)は、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味で、ラグビーの合言葉「One for all ,all for one.」(一人はみんなのために、みんな一人のために)にも通じるものがあるといわれています。


取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

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