多胡碑(吉井いしぶみの里公園)

那須国造碑(栃木県大田原市/国宝)、多賀城碑(宮城県多賀城市/国の重要文化財)と並び日本三古碑に数えられる古代碑が吉井いしぶみの里公園にある多胡碑(たごひ)。さらに金井沢碑(高崎市山名町)、山ノ上碑(高崎市山名町)とともに「上野三碑」のひとつ。8世紀に立てられた古代の石碑は、国の特別史跡になっています。

一帯は古代、多胡郡の中心地

『続日本紀』に記される上野国(群馬県)で14番目の郡の多胡郡が設置された公の事跡を記念した碑で、今も肉眼で和漢混淆文で記された6行80字の碑文(「弁官符、上野国片岡郡、緑野郡、甘楽郡、并三郡内三百戸、郡成、給羊、成多胡郡、和銅四年三月九日甲寅、宣左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣正二位藤原尊」)を読み取ることができます。

碑文によれば多胡郡は、711(和銅4)年3月9日(『続日本紀』には3月6日と記載)に当時の3つの郡から300戸を分割し、新しく設置された郡。

碑文は朝廷の最高機関である弁官局からの命令を記したもの。
「郡成、給羊、成多胡郡」という文は、羊(渡来人と推測される人名/名字ではなく名前)に土地を給わって郡を成し、多胡と称すると解釈できます。

地元のでは多胡碑を「ひつじさま」と呼んで祀ってきました。

吉井町という町名は、『続日本紀』の記載から766(天平神護2)年に新羅人193人に吉井連(よしいむらじ)という姓が与えられた名残りとされていて、一帯が古代から拓けた先進の地だったことがよくわかります。

吉井町岡地区では、平成26年に米など穀物を納める正倉(しょうそう=公的な施設に設置され穀物などを納める倉庫)が発見されており、さらに多胡碑の真南200mの高台から法倉(ほうそう)も発見され、郡衙遺跡の一部とみられることから一帯が古代に郡衙(ぐんが=郡の役所)のあった地だったことが判明しています。
発掘された倉庫跡は、古代多胡郡の正倉院(倉庫群)であることからを「多胡郡正倉跡」と命名されています。

多胡碑(吉井いしぶみの里公園)
名称多胡碑(吉井いしぶみの里公園)/たごひ(よしいいしぶみのさとこうえん)
所在地群馬県高崎市吉井町池1095
関連HP高崎市公式ホームページ
電車・バスで上信電鉄吉井駅から徒歩30分、またはタクシーで5分
ドライブで上信越自動車道吉井ICから約2.8km
駐車場吉井運動公園体育館駐車場(430台/無料)
問い合わせ多胡碑記念館 TEL:027-387-4928
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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